日本銀行大阪支店見学

 日本銀行大阪支店の見学会が再開されてるので申し込んで見学。

 以前は、一単位5名以上の申込みでの新館と階段室の見学と体験コーナーも有って1時間20分のツアーでしたが、今の所は旧館の広報ルームの資料展示コーナーと記念室に省略されて所要時間も50分に短縮されてますが1名でも申し込めます。

 少しづつ様子を見ながら元に戻して行くそうなので、入館時の検査が煩わしいのと写真も殆ど不可ですが、何れまた伺おうかと思ってます。

 f:id:jotoyumekoi:20211201140714j:plain

資料展示コーナーでの撮影スポット。
40億円のレプリカ。f:id:jotoyumekoi:20211201135637j:plain

記念室です。f:id:jotoyumekoi:20211201140014j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211201135855j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211201140420j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211201140511j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211201140310j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211201140153j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211201135749j:plain

記念品のお札の裁断片を封じ込んだシャープペン。f:id:jotoyumekoi:20211201141033j:plain

頂いた資料。f:id:jotoyumekoi:20211201141217j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211201140608j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211201140935j:plain

筋違橋親柱

 高麗橋筋から江戸堀1丁目にかけて江戸堀川が西横堀川に接続する辺りの西横堀川に筋違い斜めに架けられていた「筋違橋」、その親柱の1本は OsakaMetro 四つ橋線肥後橋駅から東の阪神高速1号環状線高架下駐車場入口に金属製のレプリカと供に保存されています。

 処でもう1本の親柱はと言うと、筋違橋を西に渡った西区江戸堀で営業していた小鯛雀鮨で有名な鮨の銘店「鮨萬」の店頭に置かれていましたが、「鮨萬」が西区靭本町に移転するさい一緒に持っていかれ今は「鮨萬」の駐車場に置かれて居るそうです。

 処で「鮨萬」と言うとあべのハルカス前・阿倍野歩道橋のネーミングライツを契約した「鮨屋萬助」さんですね。

 f:id:jotoyumekoi:20211214230556j:plain

右のレプリカ、中々良く出来ていますね。f:id:jotoyumekoi:20211214230606j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211214230615j:plain

信濃橋親柱

 OsakaMetro 四つ橋線本町駅から本町筋を東に阪神高速1号環状線高架下に旧信濃橋の親柱が保存されています。

 信濃橋は埋め立てられ道路に成った西横堀川に架けられていた橋で、阪神高速道路の建設が進められる中 西横堀川と共に姿を消しました。

 f:id:jotoyumekoi:20211214225852j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211214225904j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211214225916j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211214225934j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211214230013j:plain

クラブコスメチックス文化資料室・第17回 企画展-広告にみる大正ロマンと昭和モダン-展

 双美人の商標で有名なクラブコスメチック文化資料室の「第17回企画展-広告にみる大正ロマンと昭和モダン-展」です。

 この企画展昨年期間中に新型コロナ禍で途中で中止、年を改め8月から2ヶ月の会期も新型コロナ第4波のために11月29日まで会期を延長、最終日の29日 要申込なのでおそらく私が最後の鑑賞者では無いかなと思います。

 大正から昭和初期におけるクラブ化粧品の広告をとおして、当時のモダンな生活や文化を探る本展、近代広告史に名を残す創業者・中山太一の「クラブ式広告」の資料が多数展示されていて、7年前上村さんの「クリエイティブライブラリー@大阪府立大学」で文化資料室の方数名が来られてお話をお聞きしてから来て見たかったんですが、その時お話されていたプラトン社発行の雑誌「女性」も展示されていました。

 展示の中で、7年前にはお話の無かった複葉機「鳳号」による飛行会が数回開催されてたそうで、飛行機見たさに集まった大勢の観衆に機上から商品を撒くなど行ったそうですが、複葉機「鳳号」とは奈良原三次の奈良原式飛行機だと思いますが、飛行会は明治43年明治44年との説明がして有り、奈良原式飛行機が「鳳号」と名乗ったのは4号飛行機からで、その4号飛行機は明治45年に製作されてるので飛行会に使われた複葉機は奈良原式3号飛行機では無かったかと思います。

 

中央大通り沿いの大きなビルです。f:id:jotoyumekoi:20211201104806j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211201104833j:plain

展示品、展示室内撮影禁止で写真は撮影スポットの此処だけ。f:id:jotoyumekoi:20211201104854j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211201105128j:plain

写真が無いので昨年の展示会リーフです。f:id:jotoyumekoi:20211201105140j:plain

出町柳の『鯖街道口』碑

 加茂川に架かる出町橋西詰袂に「鯖街道口」の碑。

 この地を起点に高野川左岸を北上して、八瀬・大原、近江国朽木から越前小浜へ至る若狭街道、古くから越前・若狭の海産物を運ぶ街道で有った若狭街道を傷みの早い鯖を夜通し運んだ事から何時しか「鯖街道」と呼ばれる様に成り、京都での鯖の消費が増えるに連れて他にも「鯖街道」と言える街道は幾つか存在する様ですが、「鯖街道」と言って最初に浮かぶのはやはりここ若狭街道ですね。

 f:id:jotoyumekoi:20211213183305j:plain

加茂川に架かる出町橋を東に渡ります。f:id:jotoyumekoi:20211213183720j:plain

加茂川、高野川を渡り大原口道標、これより高野川沿いを北へ若狭街道鯖街道)。f:id:jotoyumekoi:20211215164234j:plain

J.N.ハリスと同志社

 同志社大学今出川キャンパスにあるハリス理化学館。

 2013年ハリス理化学館同志社ギャラリーに改組され、その一室に「J.N.ハリスと同志社」と題した展示が行われています。

 当館名称の謂れと成っている「J.N.ハリス」さんですが、お雇い外国人の研究者では無くて、アメリカの実業家で同志社側の求めに応じて10万ドルの寄付を行い、当館の名称にその名を残した方だそうです。

 なを今出川キャンパスのハリス理化学館が同志社ギャラリー改組に伴い、2015年同志社京田辺キャンパスの「理工学研究所」が「ハリス理化学研究所」に名称が改められたそうです。

 

レトロな階段を2階に上がります。f:id:jotoyumekoi:20211207142521j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211207142649j:plain

展示品は理化学館の備品類で、J.N.ハリスさんとは直接の関係性は無い様です。f:id:jotoyumekoi:20211207142734j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211207142821j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211207142906j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211207142932j:plain

廊下にJ.N.ハリスさんの肖像画f:id:jotoyumekoi:20211207142613j:plain

第23回ハリス理化学館同志社ギャラリー企画展『平安遷都前の京都盆地 ー飛鳥・奈良時代のムラと寺ー』

 洛北の赤山禅院の帰り、同志社大学今出川キャンパスに廻ってきて同志社大学ハリス理化学館同志社ギャラリー第23回企画展「平安遷都前の京都盆地 ー飛鳥・奈良時代のムラと寺ー」です。

 同志社大学歴史資料館が行ってきた今出川キャンパス内の発掘調査で発掘した出土品の展示企画展。

 奈良時代のこの地点は、正倉院文書『山背国愛宕郡出雲郷雲下里計帳』に載る人々が暮らした地域で古代出雲郷と考えられるそうで、飛鳥・奈良時代のムラ・寺の群の中央に8世紀末になって平安京は築かれたと言えます。

 展示物の大半は土器や瓦などの大小破片で、ある程度知識を得た上でジックリ見ないと違いは良く解りませんが、自学の構内とは言えこれだけの系統だった発掘調査にはただただ感心します。

 

少し前までは閉じられてた正門も漸く開放されてます。f:id:jotoyumekoi:20211203193914j:plain

重要文化財の「クラーク記念館」。f:id:jotoyumekoi:20211203194029j:plain

ハリス理化学館 (重要文化財)。f:id:jotoyumekoi:20211203194152j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203194247j:plain

二階に上がります。f:id:jotoyumekoi:20211203194335j:plain

保存されてる教室で使用されてた椅子と一体化されてる小机。着座可能ですがいまの基準では小さいですね。f:id:jotoyumekoi:20211203191524j:plain

第一会場。f:id:jotoyumekoi:20211203193401j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203191614j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203191710j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203191814j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203191858j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203191934j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203191957j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203192025j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203192122j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203192221j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203192330j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203192433j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203192519j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203192628j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203192742j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203192838j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203192929j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203193009j:plain

第二会場。f:id:jotoyumekoi:20211203193445j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203193108j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203193150j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203193226j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203193259j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203193325j:plain

図録とまでは言えませんがしっかりした内容のパンフです。

オリジナルグッズのショップです。

f:id:jotoyumekoi:20211203193741j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203193816j:plain

『二条家邸跡』碑

 赤山禅院から叡電出町柳駅に出て同志社大学に向かいますが、今出川通り沿いの同志社女子大正門横に「二条家邸跡」碑が建ってました。

 石碑側面に平成二十五年二月と刻まれていて、私が以前通った時(2012年)には存在して無かった様です。

 二条家とは、藤原氏北家九条流五摂家中の一家、二条家邸は元々は京都御所の南に隣接していたが、譲位した後西天皇に院御所用地として明け渡し現在地に移転、維新後明治天皇と一緒に東京へ移り、1877年敷地西半分1946年に東半分を同志社大学が取得し、現在は同志社女子大学の敷地と成っています。

 これまで数度の発掘調査が行われ、幕末期の庭園遺構や二條家邸初期の遺構が極めて良好な状態で残っている事が確認されていますが、場所が女子大構内と有って余り一般公開される事は無い様で、今出川通り沿いの遺構「通路」と「井戸跡」に外から分かる様に解説板が設置されています。

 f:id:jotoyumekoi:20211203032613j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203033140j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203032855j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203033025j:plain

f:id:jotoyumekoi:20211203032730j:plain