今年の1月に受講しましたネットワークサロン「まち歩きの企画づくり」のフォローアップ企画だそうで、古の街道筋「八軒家浜から熊野詣界隈」を歩く、に参加してきました。
~古の街道筋「八軒家浜から熊野詣界隈」を歩く~
天満橋駅→現八軒家浜→八軒家浜船着場跡→熊野街道→坐摩神社元宮→大坂町中時報鐘→中大江公園→山本能楽堂→谷町4 丁目駅
というポピュラーなコース設定で、京阪天満橋駅から南側を2時間程度の行程で、勿体ぶったテーマの割にはあまり距離を歩きませんが、まち歩きの企画づくりを体験するというコンセプトも有りまして、ガイドさんの思い入れタップリの「まち歩き」を実体験と行きたかったのですが・・・・・。
ガイドさんのテーマ説明を拝聴します。この頃は雨も小止みで傘も必要ない位でした。
一時小止みでした雨模様も「まち歩き」開始当たりから本降りとなり、途中から土砂降り状態で、スニーカーの中までビチョビチョなのですが、気象警報が出ない限りは中止には成らないので、最後まで歩き切りました。
これもまた「まち歩き企画づくり」の実体験と言えばそうなのでしょうか。
八軒家浜
八軒家浜の噴水。外へ出た途端に雨が降り出しました。
川の駅でオリエンテーション。
ガイドさんの、ガイド学というかガイドに対する姿勢と云う様な講義を聴講します。
土佐堀川を艀が運行して行きます。
昨年の「水都大阪2009」の賑わいが、嘘のような川の駅。
定期運航の水陸両用バスが、帰って来た処でした。
大阪府設置の八軒家浜・銘板。
小楠公義戦之碑。
小楠公義戦の碑に付いては、昨年ブログに少し書きましたが、太平記の内容から橋から溢れた兵が溺れたと云うのが定説の様ですが、私はその時、行基が架けたとも云われる渡辺橋は無かったのでは無いかと思って居ります。
渡辺は「渡しの辺」つまり、渡船を生業としている渡辺党が架橋を喜ぶ訳も無く、3部作から成る太平記も「瓜生野の戦い」から「渡辺橋の戦い」の辺り以降は、橋の架かっていた後の世に、書き足されたと考えます。
それと、なぜ楠正行が溺れた敵兵を手厚く看護ののち解き放ったかは、別方面に向かった細川の四国兵以外は、摂津河内和泉の兵で、謂わば身内同士で戦ったので無ないかと思われます。
それ故、負けると判っていた「四条畷の戦い」の折、助けられた兵たちが楠正行の元にはせ参じた故事も納得がいきます。
以上は、何の根拠もない仮説であり私説です。
マタマタ歴史の話。幕末は八軒家浜新選組の定宿、京屋跡。
京阪天満橋駅の南側、土佐堀通りを渡った土佐堀通り沿いのチーズ屋さんです。
普段よく自転車で通る道ですが、何時もは歩道が狭いため、車道を通行しているので気が付きませんでした。
同じ並びの、高倉筋。
同じく土佐堀通り沿いの、八軒家浜跡碑。ここは昆布屋さんです。
後側に有る小さな石碑は旧八軒家浜石碑。
同じ並び駐車場奥の石垣。下の方は太閤秀吉時代の遺構だそうです。ここも元船宿跡。
坐摩神社行宮
坐摩神社行宮西向かいの「エルおおさか」の工事時発掘遺物展示。
豊臣時代の大阪城遺物。
雨宿りがてら、向かいの坐摩神社行宮のガイドを拝聴。
豊臣大阪城築城以前は、この地に座間神社が鎮座されて居たそうです。
本社と同じ様に、アジサイが咲いています。
御社。
熊野街道石碑。平成2年に建てられました。
この辺りの地元では、「お祓い筋」の方が通りが良い様で、住吉大社に向かう街道と云うのが通説ですが、ガイドさんの説では色々有る様です。
大坂町中時報鐘
明治の初め大阪城の時報、通称「ドン!」が開始されるまで、大坂の時を刻んだ時報。
大坂町中時報とは釣鐘の事で、どう謂う訳か昭和60年まで大阪府庁屋上に雨曝にされて居たのを釣鐘町の有志が、当時の岸知事にお願いして元のこの場所に移転。
町名の「釣鐘町」は、時報鐘に由来。
写真では良く判りませんが、三角形の屋根の下に吊るされて居ます。
中大江公園
ここもコースで謂れが有る様ですが、私は知りません。
土砂降りのためパス!
コース最終目標、山本能楽堂。
時報鐘からこの辺りまでは、土砂振り状態でした。