「京都御苑・夏の自然教室」の帰り、「三条」から京阪電鉄で帰路に就く予定が、いっそ高瀬川沿い・木屋町通りを「祇園四条」まで歩きたいと同行者のトンボさんが言い出して、「気温36℃」「夏風邪」「寝不足」の三重苦を押しのけて、お付き合いをする事にしました。
高瀬川は、江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河で、開削から大正9年(1920年)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられた。
以上「ウィキペディア」冒頭ですが、幕末騒乱の地「京都」の中心地として、幾多の偉人たちが駆け抜けた歴史の舞台としても有名です。
鴨川河川敷のお地蔵さん脇から、三条大橋に出ます。
鴨川・三条大橋のたもとの立札。
東海道五十三次の終点「京・三条」。立札の横「弥次・喜多」の銅像。
「佐久間象山」「大村益次郎」遭難之碑。
遭難の地は高瀬川沿いを少し北側、ホテルオークラの裏あたりだと思います。
このまま西へ少し行くと河原町三条交差点の手前、「幕末・池田屋事件」の池田屋・跡地(現在はパチンコ屋さん)に出ます。
三条小橋から高瀬川。
左は「ピザ・サルバトーレ」、高瀬川の水質は以前もっと悪かった様に思いますが。
この辺りで一服するはずが、適当なお店に空席が無くそのまま祇園四条まで歩きましたが、三重苦に「脱水」が加わり最悪の状態に成りました。
三条河原で一族39人が惨殺された豊臣秀次公の墓がある、慈舟山「瑞泉寺」。
山門の修繕工事中だそうです。
三条大橋西畔にある瑞泉寺は慈舟山と号し浄土宗西山禅林寺派に属します。
秀次が高野山で自害したのち、秀次の幼児、妻、妾たち39人が当寺の近くの三畳河原で死刑に処せられ、遺骸はその場に埋葬、塚が築かれ石塔が建てられたが、その後の鴨川の氾濫などにより次第に荒廃しました.
1611年 角倉了以が、高瀬川の開削中にこの墓石を発掘し、当地に移し塚を再建して堂宇を建立しました。
これが当寺の起こりで、僧桂叔を開基とし寺号は、秀次の法号瑞泉寺殿をとって瑞泉寺と名付けられました。
高瀬川沿いを散策します。
南大黒橋。
少し手前に「彦根藩邸跡」石碑も在ったはずですが、見落としたようです。
この辺りから脱水症状も加わり意識が朦朧状態です。
土佐藩邸跡、石碑と立札。
元京都市立立誠小学校(現京都市立高倉小学校第2教育施設)正門右脇の「角倉了以・顕彰碑」。
同じく左脇の、立誠小学校110周年記念設置の「高瀬川案内碑」。
案内碑すぐ横の「日本映画発祥の地」立札。
旧立誠小学校。
木屋町通りを四条大橋方面、東に曲った辺り左に有る「先斗町」の立札。