会津藩が京都守護職として文久2年(1862年)に入洛してから4万坪の寺域内に1000名以上の藩兵が常時駐屯し、鳥羽伏見で敗退する慶応3年(1868年)まで、京洛の地で命を落とした会津藩士計352霊が葬られています。
ちなみにその後の戊辰戦争で会津藩は3107名もの戦死者を出し、2番目の幕府軍1434名、3番目の仙台藩1202名と比べても大きな犠牲を出しています。
金戒光明寺門前の石碑。
会津藩墓所に辿り着きました。ここまでは観光バスの観光客は上がって来ません。
京都守護職在勤で疲弊しきった会津藩の財政は新式小銃の装備を許さず、旧式ゲベール銃にて後の会津戦役3107名の戦死者を数える事に成るとは、この地に眠る京洛の地で命を落とした会津藩士計352名には、想像もできなかったでしょうね。
秋の日は早く「くろ谷」と云いながら小高い丘を下り、岡崎神社に向かいます。