岡崎神社参拝の後、岡崎通りから平安神宮應天門」前の冷泉通りを西に、冷泉橋を渡り琵琶湖疎水(鴨東運河)沿いを鴨川まで歩き京阪・神宮丸太町駅から帰ります。
岡崎通りの「関西美術院」。
岡崎通り「観峰美術館」。
千枚漬けで有名な「大安本店」。
店内は観光客で一杯です。
「平安神宮」
着物姿の集団は高校生の修学旅行だそうです。
「琵琶湖疏水」、冬鴨の「ホシハジロ」と「ヒドリガモ」が渡って来ています。
疏水沿い冷泉通りを西に、東大路通を越えて「熊野橋」の畔の石碑「白河南殿跡」。
白川南殿(蓮華蔵院)
平安時代後期(11~12世紀)、白河とよばれたこの地は、平安京が鴨川をこえて東に市街が形成され「六勝寺」と総称される皇室御願の寺をはじめとする数多くの堂舎が建立された。
それに伴い、白河にも上皇の御所が設けられた。
その内の一つである白河南殿は、「白河泉殿」あるいは「南本御所」ともよばれ、その中に阿弥陀堂があったことから、「白河阿弥陀堂御所」とも称された。
もと覚円大僧正の僧坊であったものを嘉保2(1093)年5月御所に改められたもので、その位置は現在の聖護院通華蔵町付近であり、方二町の広さを占めていたと推定されている。
南殿の中に作られたのが蓮華蔵院で、この時期の特徴の一つである御所と御堂が結合したものである。
最初に造営されたのは九体丈六阿弥陀堂で、堂は備前守平正盛(清盛の祖父)、九体の丈六仏は越前守顕盛がそれぞれ担当してつくった。
その後大冶5(1130))年の白河法皇一周忌に新しい九体堂が造営された。
これらの御堂の他に三基の御塔があり、永久5(1117)年、保安3(1122)年、大冶5年にそれぞれ供養されている。
昭和50年7月、水道本管布設工事に伴って六勝寺研究会が発掘調査を担当し、熊野橋西詰現在地で。鎖地状の遺構を検出、これにより西側が白河南殿であったことが、ほぼ明らかとなった。
以上、案内板本文を全文記します。
正面「上下水道局水道部疏水事務所」。
舟溜ベンチ。
疏水沿い遊歩道のベンチ? 不思議なデザインです。