御霊神社楼門前から西に、「猿田彦神社」から烏丸通を越えて衣棚通の「擁翠園」。
「擁翠園」は、室町幕府第三代将軍足利義満の管領細川満元が応永年間に金閣寺造営の余材で造営した邸宅が始まりで、1426年細川満元が没すると寺院に改められ「岩栖院」と称しましたが、応仁・文明の乱以下京都に打ち続く戦乱で荒れ果て後に徳川家康に依り、元々の刀装彫金師・後藤家の旧領で有ったので後藤家・当主の後藤長乗に与えられ加賀藩・前田利常の資金援助などで小堀遠州によって庭が補作整備された後天明の大火で焼失、明治に成り三井家の手に渡り別邸と成ります。
戦後は旧郵政省の所有に移り京都貯金事務センターの敷地内庭園として春・秋に一般公開されていましたが、郵政民営化の後高値売却を企んだ日本郵政株式会社は無条件での競売を計画、漏れ聞いた京都市議会や地元の反対で売却条件に庭園の保全を含める事に成り、2011年に落札した民間会社の手により庭園整備されたそうですが、残念ながら民有地のため現在は一般公開されていません。
「擁翠園」は、京都御苑西の烏丸通の少し西に越えた衣棚通沿いになりますので、この辺りから完全に迷っています。
駒札。