天王寺区味原町の地元の方たちが、味原町魅力発見の下調べまち歩きを行うので参加します。
計画では、私も去年暮れ「あべのハルカス・縁活」で参加したオープン台地に参加団体として登録予定なんだそうで、町会長さんと地元の方からお話をお聞きしながら味原町を廻ります。
味原町と云うと、私が子供のころ大阪市営の路面電車で天王寺難波方面に出かけるときの道すがら通り過ぎてた街で、近隣の鶴橋や玉造、空堀などに囲まれ余り目立たない街(地元の方のお話)味原ですが、案内役の地元の古老お二人のお話で、真田山公園の高射砲陣地とか、牧場の話とか遣唐使の船着場とか色々ヒントを頂いて少し調べてみました。
浪花百景にも描かれた「味原池」は有名ですが、お話の中の味原に戦前頃まで存在した牧場は、摂津市の平安期~室町期の牧名「味原牧(あじふのまき)」と類似、元慶8年(884年)の太政官符にもその名称が使われており、摂津市には現在も味生(あじふ)の地名が存在し、味原町にも味原牧(あじふのまき)が分置されていたのは容易に想像できます。そうであれば味原町の牧場は中世までさかのぼる事に成ります。
日本書紀には「味経宮(あじふのみや)」との記述が有り難波宮の王宮とされ、味原町に隣接する小橋(おばせ)町に旧跡有とされます。
遣唐使船の船着場に付いても、近年は砂浜が続き遠浅の上町台地西側より、西風除けの上町台地の存在やフナムシ除けの淡水域である内海、現在の森ノ宮から玉造付近とされるのが一般的で、味原も船着き場の一つだったと考えられます。
以上少し調べただけでも出るは出るは、難波宮との関連性まで窺い知れて来ました。
考えて見れば近隣の玉造は勾玉造りの事ですし、難波宮の朱雀門はどの辺りかは不明ですが、直ぐ西に難波大道が通っていた可能性は大で、味原とは実に面白い所です。
味原町の喫茶「楽山」集合。
町会長さんにご案内をお願いしてます。
この辺り一帯は戦災を受けてますのであまり古い建物は残ってませんが、なんとなく味のある建物です。
この辺りが牧場だったそうで、吉田牧場と言ったそうです。
戦災で焼け残った蔵。
牧場オーナーのお家の蔵です
今でも味原池の存在を感じさせる坂道。
真田山公園。
戦時中は高射砲陣地が置かれてたそうで、真田信繁の真田丸でも有名。
大阪市立味原幼稚園。
絵パネルの間に「あしたもいきたいアットホームなあじはらようちえん」と在ります。
戦前、味原町に兵舎の有った旧日本陸軍騎兵第4連隊の忠魂碑。
巨大な物です。
碑に嵌め込まれたレリーフ。
障害を飛び越える人馬。
境内の片隅に、大正壬戌(1922年)に建てられた「味原町碑」。
産湯稲荷神社に向かいす。
大小橋命、産湯の地にて産湯稲荷。
比売許曽神社の旧社地にあり、現在は同社の御旅所で末社となってます。
比売許曽神社、現在の主祭神は下照比売命、大国主系の神でやはり物部系ですが、この社にまつられてるのはお稲荷さんでしょうか。
「式内 比賣許曾神社御旅所」の石碑。
桃山跡の石碑は最近建てられたもので、味原池周辺は明治の頃まで広大な桃の林があり、味原池とともに景勝の地として知られていたのでその名称が有ります。
「大小橋命産湯玉之井」碑。
小橋里(おばしのさと)味原郷にあり、大小橋命の館舎の地。
生野区の勝山は、大小橋命の墓であるとも言われます。
大小橋命は藤原氏とも関係が深い神です。
大小橋命産湯玉之井。
井戸の水は地下鉄工事の影響で枯れているそうです。
井戸の奥に不動明王。
水垢離が出来ます。
境内小社。沢山の神々が祀られています。
祠の中のお地蔵さんはタヌキ。
鳥居の横にはお稲荷さんらしく「駒キツネ」。
桜が満開。
そろそろ終了。
玉造筋に戻ります。
階段の向こう玉造筋。
左に磐船旧蹟の石碑が有り、ここは磐船山?
『磐船事碑』
天探女命の乗ってきた磐船、その磐船旧蹟の石碑。
高天原から磐船が着いた津が高津、地名の謂れです。
高津とは遣唐使船の船着場かも・・。