大阪市が設置した案内板に
仁安3年(1168)に、後白河法皇は、高野山に参詣される途中、
とくにこのあたりの景色を好まれ、生母・待賢門院の菩提のためにこの寺を創建されました。
寺の名前は「母后報恩」の意味がこめられています。
往時は12の坊舎を有する大伽藍で、代々住職は皇女が勤める尼寺でしたが、淀川の洪水や兵乱などでしだいに勢いが衰え、一時は荒れ寺となっていたこともありました。
寺宝として後白河法皇と待賢門院の画像のほか、享保4年(1719)の略縁起などがあります。
とくにこのあたりの景色を好まれ、生母・待賢門院の菩提のためにこの寺を創建されました。
寺の名前は「母后報恩」の意味がこめられています。
往時は12の坊舎を有する大伽藍で、代々住職は皇女が勤める尼寺でしたが、淀川の洪水や兵乱などでしだいに勢いが衰え、一時は荒れ寺となっていたこともありました。
寺宝として後白河法皇と待賢門院の画像のほか、享保4年(1719)の略縁起などがあります。
以上の様に大変由緒のある名刹なんですが、淀川の度重なる洪水や兵火などで衰退していたところに明治期の廃仏毀釈や1945年第3回大阪大空襲によって焼失などで見る影も無く成っていましたが、1992年に本堂が新築され現在の姿に収まっています。
付近は住宅街で、境内もそれほど広くないので観光寺院では有りませんが、もう少しある程度は顕彰されるべき寺院です。