指月伏見城跡

 2015年のマンション建設に先立ち行われた調査で判明した豊臣秀吉時代の指月伏見城遺構、調査の後埋め戻され後にはマンションが建設、その一角に堀東側石垣の一部を移築し展示されています。

 伏見指月の伏見城と云うと、豊臣秀吉が関白位と政庁としての聚楽第豊臣秀次に譲った後の隠居所として1591年から築城が始まった城と云うより城館の様な豪華絢爛な建物だったらしく、1593年完成後は幾度か茶会が開かれるなど隠居所としての機能していましたが拾丸(豊臣秀頼)が誕生後に豊臣秀次一族が廃絶され、豊臣秀吉自ら政務に復帰すると共に1594年から宇治川の流れを引き込み外濠を整備するなど大規模な改修が行われて豊臣秀吉の本城としての完成を見ますが、1596年の「慶長伏見地震」でほぼ倒壊、火災は無かった様で倒壊を免れた建物や遺構を1㎞北の木幡山に新たに伏見城として移築、区別してそちらは木幡山伏見城と呼ばれ豊臣秀吉はそこで他界し以後は徳川家康が入り政務を行いますが、関ヶ原合戦の前哨戦で重要な働きをします。

 僅か2年しか現存しなかった指月伏見城は、遺構が発見されるまでその存在そのものが疑われるほど「まぼろしの城」扱いでしたが、幅50m深さ推定15mの堀跡が確認され金箔瓦が多数出土するなど、豊臣秀吉の本城として相応しい規模だったことが推定されています。

 

京阪観月橋駅から北に、国道24号線から少し東に入ります。f:id:jotoyumekoi:20200901035315j:plain

UR公開空地、通り過ぎた処を南に入ります。f:id:jotoyumekoi:20200901035429j:plain

この石組が公開保存されてる「指月城跡」。f:id:jotoyumekoi:20200901035327j:plain

案内板。f:id:jotoyumekoi:20200901035338j:plain

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周辺は住宅地です。f:id:jotoyumekoi:20200901035416j:plain