中甚兵衛翁碑

 近鉄けいはんな線・吉田駅の少し北に有る今米公園内に「中甚兵衛翁碑」が建ってます。

 大阪で1914年に陸軍の大演習が行われた際、行幸された大正天皇より過去に遡って地元の功労者に叙勲があり中甚兵衛に対し、従五位が送られたのを記念して翌年有志により建立されました。

 当地には元々春日神社が存在しましたが、折しも1915年少し北の吉原・粟原神社に合祀され建碑用地を検討中の「中甚兵衛翁碑」が、春日神社跡地に建立されました。

 月日が移り、同地が中甚兵衛 関係者には事前の連絡も無く1968年突如として東大阪市より公園用地の指定があり遊具等が設置され児童公園と成り、合祀されてた春日神社は1983年公園代産地に移り今米春日神社として今米の地に帰村復社しています。

 石碑前の2基の顕彰板は、2004年の東大阪市大和川付け替え300年祈念事業」のさい古い顕彰版を撤去した後 新たに設置された顕彰板だそうです。

 以下は、東大阪市によって設置された中甚兵衛 顕彰版の顕彰文。

 

 江戸時代の初め、河内平野を幾本にも分かれていた大和川は、土砂の堆積により川底が上がり始め、度々洪水を引き起こしていました。
 寛永16年(1639)今米村に生まれた甚兵衛は、明暦2年(1656)父が亡くなった後、河内各地の庄屋とはかり、大和川を柏原よりまっすぐ西に付け替えるよう再三幕府に訴えました。しかしながら、新川筋にあたる村々より強い反対が起こることも合って、幕府は付替えをなかなか受け入れず、何回も淀川と合流する辺りからの大坂河口の改修を行うことで対処しました。
 元禄12年(1699)大坂河口の治水工事も終了しますが、河内平野の村々の状況はいっこうに改善されず、その翌年・翌々年と大水害が続き、年貢は全く収められないことにもなりました。ついに幕府は方針を転換、付替えを担当することになった堤奉行の万年長十郎のもとに、甚兵衛は何度も罷り出て意見を具申しました。
 こうして元禄16年(1703)10月、付け替えが決定しました。この時甚兵衛は66歳、運動開始から50年近くが経っていました。
 付け替え工事のあいだ(翌年2月~10月)、甚兵衛はその力量を認められて普請御用を勤め、工事完成後、功績により名字帯刀を許され中甚兵衛を名乗りました。翌宝永2年(1705)に剃髪、法名乗久を名乗り、享保15年(1730) 9月、92歳で亡くなりました。
 この石碑は、大正3年(1914)陸軍の大演習が行われたのを記念して有志により建立されたものです。
                       平成16年10月 東大阪市

 

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「贈従五位中甚平翁碑」と刻まれ、
大久保利通の三男で当時の大阪府知事「大久保利武」書と有ります。f:id:jotoyumekoi:20211212170152j:plain

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