宇野薬局

 国の登録有形文化財「宇野薬局」。

 松屋町筋沿い本町橋近くの木造三階建店舗併用住宅。

 1934年築、設計は坂本建築事務所、施工が長岡栄吉(大工さん)。

 前の通りは年中通ってますが、向いのマイドームおおさかに来たついでにスマホで撮影。

 周辺は戦災を受けてなく、私が子供の頃は木造三階建の店舗併用住宅が軒を連ねていましたが今では数えるほどしか残っていなくて大通りに面した建物は「宇野薬局」だけに成ってます。

 今でも現役の薬局で、オーナーが大切にされているのが建物の端々から伝わってきます。

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看板に隠れてますが2階にも丸窓が有りそうですね。f:id:jotoyumekoi:20211015212947j:plain

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丸窓と緑色のスペイン瓦で洋館風。f:id:jotoyumekoi:20211015212957j:plain

雨樋が2階までは銅板製で、1階部分は塩ビに成ってますが盗まれでもしたのかな。f:id:jotoyumekoi:20211015213017j:plain

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『都島内代第2郵政宿舎』再訪

 近くですが、この辺りには滅多に来ないので2018年7月以来ですが健在でした。

 通りに面した方は植木類も片付けられていて、何れ何処かの不動産会社に売却されるんだと思いますが、昭和の香り漂うこの官舎、再利用リニューアルなんて事に成らないかな~。

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藤田邸跡公園(桜之宮公園)

 大阪市名勝指定「藤田邸跡公園」、明治期大阪財界の重鎮で西の渋沢栄一とも称される藤田傳三郎男爵の邸宅敷地約53000㎡の内本邸部分約16000㎡を大阪市が公園整備した緑地公園です。

 藤田邸跡は中央部の本邸と東邸は太閤園、西邸は大阪市が戦中取得戦後に元大阪市公館とされた三つに分ける事が出来き、終戦直前の大阪空襲で焼け落ち放置されていた本邸敷地は、これも大阪市が取得後地下鉄工事の資材置き場として利用した後公園整備がされ、2003年12月19日に大阪市から名勝指定を受けています。

 公園敷地には国宝「曜変天目茶碗」を収蔵する藤田美術館が隣接し、公園内には空襲被災を免れた高野山光台院から移築した多宝塔が残され、梅園梅叟が作庭した池泉回遊式の日本庭園も整備されています。

 朝夕肌寒く成る頃には紅葉が楽しめ、公園整備からまだ間が無いので木々は細目で本数もそれ程多くは有りませんが、春には梅・桃・桜と花見の名所でも有ります。

 

戦災を免れた公園南の正門。f:id:jotoyumekoi:20211001034126j:plain

巨木が幾本も残ってます。f:id:jotoyumekoi:20211001034138j:plain

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藤棚の手前に石組みの井戸が有ります。f:id:jotoyumekoi:20211001034204j:plain

桜ノ宮公園に面した中門。普段は閉まってます。f:id:jotoyumekoi:20211001034214j:plain

中央の芝生広場。f:id:jotoyumekoi:20211001034224j:plain

正面のビル群は京橋のOBP大阪ビジネスパーク)。f:id:jotoyumekoi:20211001034235j:plain

築山の向こうの白い壁は建て替えられた「藤田美術館」。f:id:jotoyumekoi:20211001034246j:plain

 左の建物は藤田美術館に併設された「あみじま茶房」。

 建物横に入口があって普段はここからも出入りできますが、「あみじま茶房」が定休日なので閉じられてます。

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茶室への伝い石。f:id:jotoyumekoi:20211001034308j:plain

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正面の茶室「光雪庵」。f:id:jotoyumekoi:20211001034116j:plain

茶室「光雪庵」裏の躙口。f:id:jotoyumekoi:20211001034330j:plain

高野山光台院から移築した多宝塔。f:id:jotoyumekoi:20211001034341j:plain

移築された当時は檜皮葺だったそうですが、銅板葺に葺き替えられたそうです。f:id:jotoyumekoi:20211001034352j:plain

所々に建物の礎石?が残されてます。f:id:jotoyumekoi:20211001033800j:plain

歌碑の様です。f:id:jotoyumekoi:20211001033812j:plain

元の場所から移動された焼け残った灯籠が至る所に置かれています。f:id:jotoyumekoi:20211001033823j:plain

灯籠が並んでます。f:id:jotoyumekoi:20211001033834j:plain

庭石と狛犬?ですか。f:id:jotoyumekoi:20211001033859j:plain

池泉回遊式日本庭園を巡る木橋は点検整備中で通行止めです。f:id:jotoyumekoi:20211001033847j:plain

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2020年から点検中だそうです。f:id:jotoyumekoi:20211001033936j:plain

なにかのアニメを思い出しますが割ったのは木です。f:id:jotoyumekoi:20211001033924j:plain

休憩用の四阿、ここで以前区役所の会議をやりました。f:id:jotoyumekoi:20211001033946j:plain

池泉回遊式の日本庭園。f:id:jotoyumekoi:20211001033958j:plain

アオサギが一羽。f:id:jotoyumekoi:20211001034011j:plain

水源は向かいの大川だそうです。f:id:jotoyumekoi:20211001034022j:plain

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桜ノ宮公園に面した北門。f:id:jotoyumekoi:20211001034045j:plain

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普段は此処から出入りする方が多い様です。f:id:jotoyumekoi:20211001034055j:plain

『大坂西町奉行所址』碑

 本町橋の「マイドームおおさか」前の「西町奉行所址」碑。

 大坂町奉行所は、江戸時代幕府直轄領のうち重要な場所に置かた行政機関「遠国奉行所」の一つ、江戸町奉行所・京都町奉行所と同じく2か所置かれ月交代の輪番制で役割を担ってました。

 大坂町奉行所は当初現在の大阪城西の大手前合同庁舎の位置に隣り合って置かれていましたが、1724年(享保9年)の大火、俗に言う「妙知焼け」にて双方合わせて焼け落ちた不都合さから西町奉行所は本町橋東詰の米蔵跡(石碑の場所)に移動再建されています。

 明治以降大坂町奉行所が廃止された後跡地には大阪府庁が置かれ、府庁が江之子島へ移った後の跡地は大阪博物場(動物園・美術館・図書館)で賑わったと伝えられますが、大坂西町奉行所の詳細については記録も余り残っておらず不明な点も多かったのですが、最近の発掘調査で少しづつ全体の規模など判明しつつあるそうです。

 石碑隣の石版には「大坂城惣構跡」「西町奉行所跡」「大阪府庁跡(初代)」と彫られてますが、本文は判別出来ません。

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第138回 特集展示 『大阪の太子信仰 -旭区太子橋の太子講資料-』

 最近は展示内容が変わると欠かさず来てる大阪歴史博物館の特集展示、第138回は「大阪の太子信仰 -旭区太子橋の太子講資料-」

 大阪市旭区太子橋の旧家で長年行われていた「太子講」、2000年にその歴史を終えるに当たりその祭具や太子像・太子絵伝などの掛軸が大阪歴史博物館に寄贈されその資料を中心に大阪と聖徳太子との関係性を聖徳太子伝や古地図など大阪歴博の収蔵品と共に辿って行きます。

 「太子講」というと、聖徳太子が寺院建立に大きな功績を残す事や「曲尺」を発明したと云う言い伝えを元に聖徳太子をご祭神にして建築関係の職人、特に大工職の行事として今でも日本各地で祀られているのが良く知られていますが、旭区太子橋の「太子講」は、聖徳太子が寺院(四天王寺)建立のため太子橋辺りを訪れ、近くの大庄屋で休息その大庄屋が代々「太子講」を継承されたと云う伝承が残っていて、他の「太子講」との整合性は余り感じられませんが、ひょっとすると森ノ宮の「元四天王寺」伝承とも関連が有りそうにも思えるお話では有りますね。

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写真は旭区の大宮神社境内「聖徳太子社」。f:id:jotoyumekoi:20210910221404j:plain

旭区太子橋の太子講祭壇、祭具は浄土真宗大谷派の祭具と同じですね。f:id:jotoyumekoi:20210910221413j:plain

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寄贈された聖徳太子絵伝、軸四幅。f:id:jotoyumekoi:20210910221438j:plain

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追手門学院通用門の『旧大阪偕行社時代の門柱』

 大阪城天守閣北の追手門学院通用門には、1945年まで存在した旧帝国陸軍大阪偕行社時代の門柱がそのまま使われてるのはよく知られている事ですが、いつもよく通ってる所なので写真を撮ろうと思うと登下校の子供達が居たり急いでいたりで、小学校の通用門でも有るので不審者紛いの事も出来ませんでしたが、たまたま人影を見かけない時間帯に出会いました。

 しかし防犯カメラには写ってるかな~。

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平城宮跡歴史公園『第一次大極殿』

 平城宮跡歴史公園での「ツバメの塒入り」観察に来たので少し遠回りして2010年に「大極殿」が復原され現在「南門」が整備中の「第一次大極殿院」を散策しながら「ツバメの塒入り」観察地点の復原事業情報館に向かいます。

 第一次大極殿院は、2010年に復原された「大極殿」を含む南北約320m、東西約180mの区間大極殿を取り囲む「築地回廊」「南門」「東西楼」が順次復原整備されます。

 

2010年に復原された「大極殿」。f:id:jotoyumekoi:20210813025229j:plain

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大極殿」から整備中の「南門」、一番遠くに1998年に復原された「朱雀門」。f:id:jotoyumekoi:20210813025258j:plain

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これまで2回一般公開され2022年3月完成予定の「南門」、この門の両側に「西楼」と「東楼」が置かれ、「大極殿」を含めて外周を「築地回廊」で囲まれます。f:id:jotoyumekoi:20210813025336j:plain

平城宮の正門「朱雀門」。f:id:jotoyumekoi:20210813025322j:plain

朱雀門」を近鉄電車が横切ります。
何時も近鉄電車車窓から眺めている門ですね。f:id:jotoyumekoi:20210813025346j:plain

何れ、第一次大極殿院の東に第2次大極殿院が整備されます。f:id:jotoyumekoi:20210813025359j:plain

超昇寺石碑と隆光大僧正

 近鉄大和西大寺駅を東に二条辻地蔵尊を過ぎた辺りに古い石碑「超昇寺札所石碑」が建ってます。

 「超昇寺」は平安時代初頭に高丘親王が創建した寺院で、往時は壮大な伽藍を誇ったと思われますがその後荒廃、周辺の地名として残っていましたが「生類憐みの令」を徳川綱吉に進言したとの謂れの残る高僧・隆光大僧正が綱吉の死後失脚した後故郷に戻り隠居所として再興、その後明治期の廃仏毀釈で廃寺とされます。

 「生類憐みの令」を綱吉に進言「悪僧」と非難される隆光大僧正ですが、最近の研究では隆光大僧正が綱吉の側近として重用される以前に「生類憐みの令」は発令されていた様なので、隆光大僧正の関与は否定されつつ有るようです。

 その隆光大僧正の墓所は、平城京第一次大極殿へ東に向かう手前の「佐紀池」北のほとりに建ってます。

 

超昇寺石碑。f:id:jotoyumekoi:20210815232657j:plain

石碑裏は判別不能f:id:jotoyumekoi:20210815232708j:plain

北辺に隆光大僧正の墓所が存在する「佐紀池」。f:id:jotoyumekoi:20210815232717j:plain