「新発見!なにわの考古学2020」での「梅田墓」の展示資料。
1500体を超える埋葬人骨の発掘調査と云う事で、おそらく沢山のコンテナがバックヤードに積まれてそうなので、来年の資料展示に期待してます。
前の写真、埋葬 B1031 の副葬品。
前の写真、埋葬 B905 の副葬品。
前の写真、埋葬 B1020 の副葬品。
前の写真、埋葬 B424 の副葬品。
骨壺。
「新発見!なにわの考古学2020」での「梅田墓」の展示資料。
1500体を超える埋葬人骨の発掘調査と云う事で、おそらく沢山のコンテナがバックヤードに積まれてそうなので、来年の資料展示に期待してます。
前の写真、埋葬 B1031 の副葬品。
前の写真、埋葬 B905 の副葬品。
前の写真、埋葬 B1020 の副葬品。
前の写真、埋葬 B424 の副葬品。
骨壺。
大阪歴史博物館で11月9日まで開催中の(一般財法)大阪市文化財協会と大阪市歴史博物館共催の「新発見!なにわの考古学2020」。
大阪市文化財協会が2019年度に行った大阪市内の遺跡発掘調査の成果出しの展示会で毎年秋頃開催されていて、今回は難波宮跡の暗渠、中世の祭祀で埋葬された鷺洲遺跡の土師器、近世の瀬戸内各地の多様な陶磁器・瓦類や広島藩大坂蔵屋敷跡など約250点の出土資料を発掘調査の写真パネルとともに展示されてます。
処で今回期待してた2019年9月から発掘調査中で、今年の8月1500体を超える埋葬人骨が見つかったと報道発表された大坂七墓のひとつ「梅田墓」の詳細な資料展示が有るかと思って来て見ましたが、写真パネル数点と展示ケース一つだけの展示でこちらは来年の成果出しに廻されるのか、それともお墓の事なんで取りあえずこれで終わりなのかな~。
石で組まれた難波宮期の暗渠。
上町台地の埋められた谷の遺構、柱跡があり橋が架けられていた可能性あり。
中世の村遺構。
埋納された土師器。
瀬戸内各地の多様な陶磁器。
特設コーナー「乾山焼と大坂」。
特設コーナー「乾山焼と大坂」。
梅田墓展示。
梅田墓の展示ケース。
新型コロナ過で中止に成った展示会。
なんばに向かう途中で、織田作之助・女三部作で名の知れた「太左衛門橋」。
橋の東南角で歌舞伎小屋を開いた興行師・大坂太左衛門に因んで「太左衛門橋」と名付けられた橋で、架橋年数は不明なれど橋の架かる道頓堀川の北が遊郭、南が芝居小屋と有ってそれを結ぶ橋と有っては恐らく興行師の太左衛門たちが掛けた橋なんでしょうね。
木造であったため大阪大空襲で焼失した後、1958年「3径間連続の成桁」橋として架け替えられ2004年に西側、2008年東側に木造の側道橋を整備、河川敷と一体化されています。
なんばに自転車で向かうためガラガラの道頓堀を想像して来て見たんですが、若い人たちで一杯の道頓堀界隈は7~8割方人出が戻ってる様で、自転車を降りて歩きましたが、御堂筋に廻ればよかった。
擬宝珠飾りの付けられた親柱。
土佐堀通から三休橋筋を南に、長堀通を越えて道は鰻谷三休橋筋に名を変え少し南に行った処にレトロな写真館「写真のツバメヤ」。
この辺りは1945年3月の第1回大阪大空襲で丸焼けに成ってるので戦後の建物だと思いますが、お店の正面入り口辺りがレトロな雰囲気が漂ってて、ショーウィンドウには宝塚歌劇団娘役・澪うららさん雪組時代のポートレートが額に入って一点だけ飾られています。
澪うららさんが宝塚歌劇団在籍だったのは1997年~2005年だったので、その頃から飾られてるんでしょうか。
長らくお店はお休みの様で、周辺はちょうど心斎橋大丸の裏通りに当たり繁華街の事でいずれ何らかの手が加わるとは思いますが、今の雰囲気は失わないで欲しいなぁ~と勝手な事ですが思っています。
ツバメの意匠を取り入れたロゴ。
2012年の台風12号で根元から倒れ撤去された栴檀木橋南詰土佐堀通り沿いの「センダンの木」、翌年6月大阪市信用金庫が寄付し新しい「センダンの木」が植樹され、あれから7年が立ち可成りの大きさに根付いてます。
中之島から栴檀木橋を渡り土佐堀通りを越えて南に行くと最近注目を集めてる「三休橋筋」と続きますが、栴檀木橋が水害で流され長い間橋の無い時期が続いたのでこの通りは南の長堀川に架かる三休橋の名が付いてます。
しかしこの通りの起点が北の中之島とすれば、「栴檀木橋筋」でも良い様に日頃思ってますが如何でしょう。
2013年6月に植樹された栴檀木。
「栴檀は双葉より芳し」の双葉のすりガラス模様の入った照明塔。
栴檀木橋から大阪中央公会堂。
指月伏見城跡から西に、国道24号線を超えて京都市営桃陵団地入口に立つ「伏見奉行所跡」碑へ。
伏見奉行とは江戸幕府が直轄地経営のため置いた遠国奉行の内の一役職、伏見の町政・木津川の船舶の取り締まりおよび京都町奉行とともに近江国・丹波国の司法・行政を管轄しますが、戊辰戦役の発火点となった鳥羽伏見戦役の伏見の戦いで会津藩兵と新選組が立て籠もり、150m北の御香宮に陣を置いた薩摩藩兵と兵火を交えた事で有名な地です。
1868年1月2日、会津藩が陣を敷いた少し西の伏見御堂の会津藩兵と御香宮の薩摩藩兵が小競り合いを続けていた処に鳥羽方面から聞こえる銃砲声に端を発し辺り一面が戦火に包まれ伏見方面には幕府軍約1万、薩長軍約3000が展開していたと言われますが、幕府軍は射程の短い旧式砲一門のみで数を頼んでろくな作戦計画も無く、薩長軍の御香宮からの4門と龍雲寺からも砲撃され伏見奉行所は炎上し淀方面に撤退する事に成ります。
処で伏見奉行所の新選組は、「燃えよ剣」などで描かれた土方歳三・永倉新八らが三度斬り込みを敢行しますが、戦果は芳しくなく虚しく犠牲のみを重ねた様です。
京都市営桃陵団地入口。
左端の「桃陵団地の歴史」案内碑の笠石は陸軍時代の門の笠石だそうです。
江戸時代と明治時代の石垣の写真が嵌め込まれてます。
桃陵団地の入り口。
桃陵団地建物の壁面は、この地の歴史に合わせて蔵の様な意匠が施されてます。