指月伏見城跡から西に、国道24号線を超えて京都市営桃陵団地入口に立つ「伏見奉行所跡」碑へ。
伏見奉行とは江戸幕府が直轄地経営のため置いた遠国奉行の内の一役職、伏見の町政・木津川の船舶の取り締まりおよび京都町奉行とともに近江国・丹波国の司法・行政を管轄しますが、戊辰戦役の発火点となった鳥羽伏見戦役の伏見の戦いで会津藩兵と新選組が立て籠もり、150m北の御香宮に陣を置いた薩摩藩兵と兵火を交えた事で有名な地です。
1868年1月2日、会津藩が陣を敷いた少し西の伏見御堂の会津藩兵と御香宮の薩摩藩兵が小競り合いを続けていた処に鳥羽方面から聞こえる銃砲声に端を発し辺り一面が戦火に包まれ伏見方面には幕府軍約1万、薩長軍約3000が展開していたと言われますが、幕府軍は射程の短い旧式砲一門のみで数を頼んでろくな作戦計画も無く、薩長軍の御香宮からの4門と龍雲寺からも砲撃され伏見奉行所は炎上し淀方面に撤退する事に成ります。
処で伏見奉行所の新選組は、「燃えよ剣」などで描かれた土方歳三・永倉新八らが三度斬り込みを敢行しますが、戦果は芳しくなく虚しく犠牲のみを重ねた様です。
京都市営桃陵団地入口。
左端の「桃陵団地の歴史」案内碑の笠石は陸軍時代の門の笠石だそうです。
江戸時代と明治時代の石垣の写真が嵌め込まれてます。
桃陵団地の入り口。
桃陵団地建物の壁面は、この地の歴史に合わせて蔵の様な意匠が施されてます。