兵部大輔大村益次郎卿殉難報国之碑

 何時も前を通りますが、目的地への途中の事で通り過ぎてしまう「大村益次郎卿殉難報国之碑」。

 高さ約12mも有る大きな石碑は、紀元2600年の節目にあたる昭和15年11月に政財界や陸海軍の要人、大阪や関西を中心に88名の発起人並に発起人黨賛助者によって亡くなった旧大阪仮病院隣接地に建立されています。

 日本近代軍政の創始者大村益次郎、若き日の村田蔵六の物語は、1969年から1971年 朝日新聞に連載された司馬遼太郎の「花神」、1977年のNHK大河ドラマ花神」で良く知られ、私は朝日新聞連載で読んでいて家の購読新聞が度々変わったりして良く解りませんでしたが、大河ドラマの「花神」の視聴は毎回欠かさず長州戦争・石州口で益次郎が屋根に上り戦況を面白そうに見ていた場面や、上野戦争では激戦予想の黒門口に配置された薩摩兵の扱いを巡って海江田信義との口論の模様など今でもよく覚えてます。

 もっとも上野戦争・黒門口の件では問い詰めたのは桐野利秋との説や、黒門口受け持ちには希望者殺到だったとの木梨精一郎の証言なども有り真相は闇の中ですね。

 薩摩長州など西国への備えとは言え、大阪に軍の基地や兵学校、武器工場などを置き軍制改革の中心地にしようとした益次郎がもう少し長生きだったら、今の大阪の様子も違って居たでしょうか。

 この日は偶々前の交差点で信号待ちに成って、日曜日の事で車の通行も人の往来も少なくて、カメラ持ってなくてスマホですが写真を撮ります。