集合場所の大阪市役所。
「大阪あそ歩」参加者実数が1万人を超えたそうで、大阪あそ歩・特別まち歩きです。
大阪あそ歩の参加者が1万人を越えたことを記念して特別まち歩きを実施します!
淀屋跡(淀屋辰五郎)から帝国座跡(川上音二郎、川上貞奴)、中央公会堂(岩本栄之助)など、大阪の町衆(人)の偉業を語りながら淀屋橋界隈を巡ります。
参加者には記念の特別バッジをプレゼント!
ぜひともご参加ください!
予約者総数ですと、今年の春シーズンで突破して居たそうですが、若干キャンセル率が高く成ったそうで、秋シーズンに持越しに成ったそうです。
本日は特別まち歩きという事で、平日の昼過ぎ、しかも雨模様にも拘らず50名位の参加者が有り、3チームに分かれての出発に成りますが、出発前に平松市長の参加で簡単なセレモニーを行います。
大阪市役所正面玄関エントランス。
3カ所に分かれて受付です。
「大阪あそ歩」3年間のパネル展。
平松市長のご挨拶と、お祝いの言葉が有りました。
出発前に記念撮影。
記念まち歩き!「人の都・大阪」を巡る ~豪商・淀屋跡から中央公会堂まで~
大阪市役所前でガイドさんのコース説明を聞きます。
3チームに分かれて雨の中出発します。
大阪府立中之島図書館は、住友家の寄付を受けて建造が開始され「大阪図書館」として1904年に開館し、設計は住友家の建築物を多く手掛けた野口孫市、日高胖です。
蔵書数は約50万冊、煉瓦と石を用いたネオ・バロック様式パンテオン風の建物は、国の重要文化財に指定されています。
現在では、中之島図書館は図書館としての機能を東大阪市の中央図書館にまとめ蔵書の一部を移転、「ビジネス支援サービス」や、関西大学大学院と大阪府立大学大学院がサテライト教室を開設していますが・・・・・・。
その事が、大阪市はこれまで「図書館で在れば土地を無償貸与する」との誓約を結んでいたのが、昨今の諸事業は図書館本来の機能からは逸脱しているとして、借地料の徴収を開始。
ただし、京阪中之島線事業に伴い京阪電鉄が用地調査を行った所、中之島1丁目地内の地籍図が混乱しており、その中に「北区中之島1丁目3番」の大阪府所有地の存在する事が判明したという事で、話が少しややこしく成って来ました。
川田順は、歌人でも在りますが住友財住友総本社筆頭理事でも在り、図書館開館50周年の時に住友系18社で歌碑が建てられ、府立図書館に寄贈されたのだそうです。
また、「老いらくの恋」で有名な俊子夫人から寄贈された。図書、原稿、書簡を保管した川田文庫も有名です。
なを川田順の歌碑は、鹿児島県佐多岬、宮崎県高千穂町、富山県上新川郡、群馬県利根郡にも存在します。
「川田順」歌碑。
「土佐堀通り」、雨が降り続きます。
「淀屋」屋敷跡
大坂の豪商「淀屋」に付いては、余りにも有名ですので今更書く必要が有る様にも思いませんが、江戸時代は所得税など商取引に対する税や、相続税などは理念その物が存在しませんので、たまに豪商が闕所で取り潰されても、それなりの合理性が存在する様に私は思います。
それにしても田沼意次と言う人は、近代的な税制を考えていたという事ですし、貿易と開国に対するその方向性や姿勢など、もっと正当に評価されるべき人物です。
ガイドさんのお話も闕所から、幕末の倉吉・牧田家の淀屋まで話が止まりません。
ガイドさんのお話が続いています。
土佐堀通り沿い道を渡り、日本で最初の手形交換所が有った、住友銀行大阪本店へ向かいます。
住友銀行本店前で少し説明を聞きますが、工事中で建物正面が覆われていました。
帝国座跡
日本最初の純洋風劇場である帝国座は1910年、新派の拠点として日本人で初めてのレコードへの吹き込みとされる「オッペケペー節」や壮士芝居で知られる川上音二郎によって建てられシェークスピアの「ベニスの商人」などを上演、自身の拠点として建設したそうです。
しかし興行的には上手く行かなかった様で、川上音二郎自身も翌年に亡くなっています。
建物自体は、昭和40年代まで存在していたそうです。
ここでもガイドさんのお話は、川上貞奴まで出て来ました。
大阪市教育委員会が設置した碑。
大阪倶楽部は、1924年の竣工以来、社交倶楽部である社団法人大阪倶楽部の会員制会館として利用され続けています。
1914年に創建された英国城館風の旧館は、同倶楽部の主唱者であった住友家・住友本社営繕課建築係が設計を引き受け、野口孫市と長谷部鋭吉がこれに当たったそうですが、1922年に失火のために焼失し現在の建物は新館に成ります。
世界的なバロック音楽楽団の「コレギウム・ムジクム・テレマン」の演奏会が開かれるなど、関西における主要な室内楽専用コンサートホールの一つともなっています。
雨の中ガイドさんのガイドが続きます。
大阪倶楽部から御堂筋を東に渡り、「懐徳堂跡碑」に向かいます。
御堂筋。銀杏並木が雨に洗われ緑鮮やかです。
懐徳堂跡碑
1724年、大坂の豪商たち(三星屋武右衛門・道明寺屋吉左右衞門・舟橋屋四郎右衛門・備前屋吉兵衛・鴻池又四郎)が出資し、三宅石庵を学主に迎えて大坂尼ヶ崎町(現在の大阪市中央区)に懐徳堂を設立した。彼らは懐徳堂の「五同志」と称されます。
江戸幕府の官許学問所と成りますが、明治政府によって1869年に懐徳堂はいったん廃校と成り、重建懐徳堂として1916年に復興、戦後の1949年、新制・大阪大学が発足し、重建懐徳堂の資料と職員を理系の大学であった大阪大学へ移管し両者が繋がります。
「懐徳」の由来に付いては、書き残された物が無いため諸説ある様ですが、
『論語』里仁篇・・・・・「君子は徳を懐おもい、小人は土を懐う」
『詩経』大雅皇矣篇・・・「予明徳を懐う」
『書経』周書洛誥・・・・「王殷をして乃ち承叙せしめば、万年それ永く朕が子を観て徳を懐わん」
などが挙げられています。
日本生命保険相互会社本店・南側の壁面に在ります。
大阪市立愛珠幼稚園銅座跡・銅座跡
緒方ビルクリニックセンター向かいの大阪市立愛珠幼稚園は、1879年に道修小学校連合町会が幼児保育の効果を社会一般に知らせようと幼稚園を設立の建議を起こした事が、幼稚園設立のきっかけと成っています。
1880年開園した。現存する幼稚園としては大阪府内では最も古い歴史を持ち、地域住民の手によって建てられた幼稚園としては日本最古の幼稚園です。
第二次大戦末期、幼稚園の東と南側に軍需会社があり古い木造建築の幼稚園は、爆撃時延焼の恐れがある為 取り壊すべきだという要請が大阪市に提出されました。
園舎の取り壊しは8月4日に行うことに成りましたが、園長が愛日小学校への備品の搬送を遅らせている間に8月15日 日本は終戦を迎へ、歴史ある幼稚園舎は破壊を免れたというお話が残っています。
銅座は、1766年に開設された大坂における銅の精練と売買を総括していた江戸幕府の機関で、大阪市立愛珠幼稚園正門前に銅座跡の石碑が建っています。
緒方記念会・適塾
緒方記念会は、緒方洪庵の御親族が代々経営されている緒方ビルクリニックセンターです。
「除痘館記念資料室」が4階に開設されていますが、今回は玄関の展示物前で事務長さんのお話を伺います。
まんが「緒方洪庵物語」パネル前で事務長のお話。
玄関右側の「除痘館跡レリーフ」と記念碑。
緒方洪庵像前でガイドさんのお話。熱が入ります。
緒方ビルから、向かいの愛株幼稚園と日本生命今橋ビルの間を北に抜け適塾に向かいますが、愛株幼稚園と日本生命今橋ビルの間の通路が整備されていて、上の様な銅像が設置されています。
こんな感じです。
通路を抜けると「適塾」です。
緒方洪庵と適塾、在籍した偉人たちの物語は余りにも有名ですので何を書くべき迷いますが、理系の大学としての大阪大学直接の源流とされます。
適塾自体は1868年に閉鎖されますが、翌年1869年設立の浪華仮病院および仮医学校に教師・塾生が移籍し、これが改組・改称を経て現在の大阪大学医学部と成っています。
漫画家・手塚治虫が医学部卒業生として有名ですが、手塚治虫の曽祖父「手塚良仙」が適塾の塾生で、手塚良仙と適塾塾生の物語が、手塚治虫の作品 『陽だまりの樹』の中に描かれています。
史跡「適塾」の案内板。
「適塾」東側のお庭。
「適塾」を後に「吉兆本店」に向かいます。
吉兆本店
「吉兆」に付いては、船場・吉兆の不祥事が有り妙な事で騒がれましたが、こちらは吉兆本店。
吉兆も超有名な日本料理店ですが、神戸市出身の創業者・湯木貞一(文化功労者)が、大阪市新町(現西区新町)にカウンターのみの割烹料理屋「御鯛茶処 吉兆」を開いたのが操業だそうです。
開店初日には来客0人だったという逸話も残っていますが、「茶道」に目覚め「茶懐石」を料理に取り入れ、日本料理の品格を総合芸術の域にまで高めたという事です。
茶道に付いての見識も深く、1987年に開館された湯木美術館で収集された茶道具のコレクションが展示されています。
湯木貞一さんの表札が掲げられています。
住所表示も現「中央区」では無く旧「東区」のままです。
たまたま営繕中らしく、玄関が空いていましたので写真を1枚。
五代友厚像
五代友厚も明治以降の近代大阪にとっては超重要人物に成り、長く成りますが北浜・大阪証券取引の紹介文をそのまま掲載する事にします。
なを本町の大阪商工会議所ビル前の五代友厚像は、右足を半歩前に右掌を上に一寸前へ出して、示現流の使い手がい つでも拔刀できるポーズだそうです。
五代友厚公は,天保六年(1835)薩摩国に出生し、薩摩藩に出仕しました。
その才覚により早くから頭角を現し、欧州視察に派遣されるなど、海外事情に通暁するようになりました。
明治維新後は、大阪で官職に就き、大阪造幣寮(現・造幣局)等の設立に尽力した後、民間に転じ、紡績業,鉱業,鉄道業などを幅広く手がけ、事業を大きく発展させました。
こうした起業家としての側面を持つ一方、いわゆる大阪会議を主宰するなど、草創期の明治政府にも大きな影響を与えています。
さらに、堂島米会所を復興するとともに、株式取引所条例の成立を受けて、自ら大阪証券取引所の前身である大阪株式取引所の発起人となり、その設立に尽力するなど、大阪の経済的基盤の構築にも熱心に取り組みました。
また、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)を設立し、その初代会頭に就任するなど。商都大阪の発展に貢献し、我が国経済界における大阪の地位を著しく向上させたものと高く評価されています。
大阪俵物会所跡
「俵物」とは対「清」貿易用の煎海鼠・乾鮑・干貝柱などの海産物(乾物)。
俵に詰められて清(中国)に輸出された事からこの名があり、高級品で在るこの3品目のことを特に「俵物三品(たわらものさんひん)」とも呼称したそうです。
木邨長門守重成表忠碑
ライオン橋をから中之島に入った辺り、東洋陶磁美術館の少し東に「木邨長門守重成表忠碑」が在ります。
木邨長門守も大坂冬・夏の陣での奮戦ぶりで有名な武将の一人ですが、どちらかと言えばその立ち振る舞いの見事さと、大向こうを唸らせた若武者振りの方で名が高い様です。
という事で、木邨長門守に付いては他に譲るとして、何でこの様な位置に巨大な石碑が存在するのかですが、大坂夏の陣で戦死したのは東大阪市の「若江・岩田」辺りだと言われ、この地では有りませんし・・・・・ですが、
この地・「中之島字山崎の鼻(現在の大阪中央公会堂辺り)」に、1879年に創立された豊国神社・別社が鎮座されていた事も有り、その詣内に建立されて在ったのが、豊国神社移転後も石碑だけが残された様です。
大阪市立東洋陶磁美術館は、住友グループから寄贈された旧安宅コレクションと呼ばれる東洋陶磁コレクションを核として1982年に設立されました。
鉄鋼専門商社から発展し10大商社の一角を占めた、総合商社「安宅産業」を中心にした安宅グループの顛末記は長く成るのでやめにして、しかし当時は大阪市も財政豊かでして、コレクションの寄贈を受けると、入れ物をすぐさま拵えました。
それに付けても「大阪市立近代美術館」は何時に成りますやら。
正面は、最後のポイント大阪中之島中央公会堂です。
東入口から入場します。
「北浜の風雲児」「岩本天皇」と言われた「義」の相場師・「岩本栄之助」を語るには、言葉がいくら有っても足らない様です。
ここでは辞世の句と、その遺書を記する事にします。
「その秋を 待たでちりゆく 紅葉哉」
(1) 全財産を債権者に提供。
妻子のためには一文たりとも使ってはならぬ。
債権者への迷惑は最小限に とどめ、踏み倒し、逃散などすべからず。
(2) 株式投機は自分一代に限り、子孫は決してすべからず。
両替商「岩本商店」の法被が展示して在ります。
展示資料の数々。
大阪の近代史が一杯詰まった大阪あそ歩・特別まち歩き「中之島」。
まだまだ紹介しきれませんが、キリが無いのでこの辺りで終わりにします。
私は解散後、何時も時間の関係でパスして居ります公会堂レストランの「オムライス」を昼食に、雨上りの中之島を後にしましたが、その時の模様はオムライス物語にでもUPしたいと思います。
大阪中之島中央公会堂北側で本日は解散。