『淀屋の屋敷跡』碑

  淀屋橋の南詰から土佐堀通を西に少し行った土佐堀川沿い緑地に「淀屋の屋敷跡」碑。

 京都・山城国の豪族の息子として生まれた岡本三郎右衛門常安伏見城の造営や淀川の堤防改修などの土木工事を請け負い、その後大坂の十三人町(現在の北浜、石碑の所在地)にて「淀屋」を名乗り材木商を創業、中之島の開発や堂島米市(米相場市場)を主体事業として様々な事業を手掛け「天下の台所」と称された大坂経済の基礎を形作った豪商で、幕府から「豪奢僭上の沙汰(町人の分限を超え贅沢な生活が目に余る)」で闕所を命じられた五代目・淀屋廣當の代には総資産が現在の貨幣価値に換算すると200兆円以上と今に伝わる桁違いの豪商ですが、本当の理由は100兆円以上の残高が存在した大名貸しに有ったと言われます。

 似たような話に、最近海の向こうのアリババグループ・馬雲さんが逢った様ですが、明治維新に大変貢献した淀屋の分家「倉吉・淀屋」の影響か、明治期のプロパガンダで幕府の強権性を象徴する大変な悪政の様に言われていて取り潰された淀屋には同情的な雰囲気が存在しますが私はそれ程の悪政とは考えず、そもそも江戸時代には国税と言う概念が存在せず取引される生産物や生産者には課税が存在しましが、商行為に対しては全く無税でその恩恵を受け米相場で巨万の富を築いた淀屋が現在の税制の中では存在しえたかと考ええると、何となく当然の帰結の様な思いも沸いてきます。

 

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淀屋米市のレリーフの様で、米俵が運び出されて船に積まれています。f:id:jotoyumekoi:20210601143439j:plain

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背景に大阪市役所。f:id:jotoyumekoi:20210601143505j:plain