山号の「志宜(しぎ)」は聖徳太子が当寺を現在の城東区鴫野(しぎの)に建立した事が起こりと言われ、時代が下り生玉神社の神宮寺別当として法円坂で隆盛、法円坂の語源は法案寺とする説も有り、さらに時代は下り大坂城築城のため秀吉によって生玉の地に移転、さらに時代が下り明治期の廃仏毀釈で廃寺の危機に陥り当時の住職が本堂から聖観音と聖天堂の歓喜天を持ち出し現在地で仮本堂に祀られて再建、現在に至ってますが生玉に有った時に比べ寺域は遥かに小さくなってるそうです。
辨財天。
大阪七福神の辨財天。
WWⅡの戦災で焼け残った壁。