企画展『商都慕情Ⅱ -水のまち大阪を巡る-』

 2018年の大阪くらしの今昔館・企画展「商都慕情 -今昔館の宝箱-」の続編「商都慕情Ⅱ -水のまち大阪を巡る-」

 今回はテーマを「水のまち大阪を巡る」として、主に江戸時代には大阪市中に流れ込んでいた淀川の水運を中心に錦絵や掛け軸が展示され、円山応挙が京都伏見から大坂天満橋八軒家までの両岸光景を描いた「淀川両岸図巻」から選んだ六場面を1940年に大阪画壇の庭山耕園と一門が模写し画帖に仕立てた「淀川両岸帖」が展示さています。

 「淀川両岸帖」は、2020年に大阪くらしの今昔館に新収蔵され今展示会が初公開と言う事で鑑賞に来てます。

 以上の作品展示ですが、私個人的には「淀川両岸帖」より18世紀末に描かれた作者不明の画帖「よと川の図」の方に古地図的な面白さが有って興味が湧いてます。

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受付を過ぎるとすぐに、大徳寺玉林院茶室「篁庵」の構造模型の展示。f:id:jotoyumekoi:20211105063522j:plain

大徳寺玉林院茶室「篁庵」の構造模型。f:id:jotoyumekoi:20211105063655j:plain

茶室の隣に町家の座敷実物大再現。f:id:jotoyumekoi:20211105063532j:plain

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淀川両岸帖。f:id:jotoyumekoi:20211105063550j:plain

淀川両岸帖の模写風景。f:id:jotoyumekoi:20211105063610j:plain

淀川両岸帖「淀城」。f:id:jotoyumekoi:20211105063619j:plain

淀川両岸帖「守口」。f:id:jotoyumekoi:20211105063626j:plain

浪速天満祭。f:id:jotoyumekoi:20211105071003j:plain

道頓堀芝居船乗込図。f:id:jotoyumekoi:20211105063635j:plain

淀川図。
淀川という字を使わず「澱川」を使っtます。f:id:jotoyumekoi:20211105063730j:plain

左の「城北水郷」が気に成ります。f:id:jotoyumekoi:20211105063738j:plain

滑稽浪花名所図。f:id:jotoyumekoi:20211105063704j:plain

滑稽浪花名所図。f:id:jotoyumekoi:20211105063713j:plain

摂陽大阪安治川口諸廻船目印山細見.。
天保山(目印山)の図です。f:id:jotoyumekoi:20211105063748j:plain

浪花百景f:id:jotoyumekoi:20211105063757j:plain

浪花百景。f:id:jotoyumekoi:20211105063807j:plain

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よと川の図。f:id:jotoyumekoi:20211105063722j:plain

よと川の図。
図上(東)の対岸は私の地元。f:id:jotoyumekoi:20211105063815j:plain

よと川の図。
図上(東)の対岸の鳥居は「桜宮」。f:id:jotoyumekoi:20211105063825j:plain

よと川の図。中之島
一番左の「栴檀木橋」は結構大きな橋で、以前少彦名神社宮司さんから三休橋筋を昔は「栴檀木橋筋」とも言ったとコメントを頂きましたが、橋の大きさからすれば納得出来ますね。f:id:jotoyumekoi:20211105063834j:plain

よと川の図。
八軒家浜辺り。f:id:jotoyumekoi:20211105063843j:plain

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京阪シティーモール屋上庭園『出会い不動』

 京阪シティーモール屋上庭園には知る人ぞ知る不動明王がお祀りされています。

 2005年に中之島新線を記念して成田山大阪別院・不動明王のご分霊を勧進したお不動さんだそうで、成田山大阪別院は京阪香里園駅近くで京阪沿線のホットスポットに成るんですね。

 不動明王像の前には水鉢と柄杓が置かれていて水掛けを誘っている様ですが、有名な法善寺横丁の水掛け不動は、お供え物を持たなかった参拝者が水をお供え代わりに掛けたのが始まりとの言い伝えが残っていて別に水掛けが決まり事では無い様です。

 しかし墓石に水を掛けたり不動明王以外にも地蔵尊などの水掛けの風習は仏教国では多々有り、お清めで有るとかお供えの意味合いも感じられるのでやはり水掛け不動さんなんですかね。

 今回私は柄杓で水を掬って手を清めただけで水掛けはしませんでしたが、ロウソク立てやお賽銭箱も置かれてるので、願い事が有る時には水掛けもやらなければと思っています。

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中央エレベーターで上り屋上に出た正面にお不動さんがお祀りされています。f:id:jotoyumekoi:20211024172830j:plain

宇野薬局

 国の登録有形文化財「宇野薬局」。

 松屋町筋沿い本町橋近くの木造三階建店舗併用住宅。

 1934年築、設計は坂本建築事務所、施工が長岡栄吉(大工さん)。

 前の通りは年中通ってますが、向いのマイドームおおさかに来たついでにスマホで撮影。

 周辺は戦災を受けてなく、私が子供の頃は木造三階建の店舗併用住宅が軒を連ねていましたが今では数えるほどしか残っていなくて大通りに面した建物は「宇野薬局」だけに成ってます。

 今でも現役の薬局で、オーナーが大切にされているのが建物の端々から伝わってきます。

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看板に隠れてますが2階にも丸窓が有りそうですね。f:id:jotoyumekoi:20211015212947j:plain

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丸窓と緑色のスペイン瓦で洋館風。f:id:jotoyumekoi:20211015212957j:plain

雨樋が2階までは銅板製で、1階部分は塩ビに成ってますが盗まれでもしたのかな。f:id:jotoyumekoi:20211015213017j:plain

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『都島内代第2郵政宿舎』再訪

 近くですが、この辺りには滅多に来ないので2018年7月以来ですが健在でした。

 通りに面した方は植木類も片付けられていて、何れ何処かの不動産会社に売却されるんだと思いますが、昭和の香り漂うこの官舎、再利用リニューアルなんて事に成らないかな~。

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藤田邸跡公園(桜之宮公園)

 大阪市名勝指定「藤田邸跡公園」、明治期大阪財界の重鎮で西の渋沢栄一とも称される藤田傳三郎男爵の邸宅敷地約53000㎡の内本邸部分約16000㎡を大阪市が公園整備した緑地公園です。

 藤田邸跡は中央部の本邸と東邸は太閤園、西邸は大阪市が戦中取得戦後に元大阪市公館とされた三つに分ける事が出来き、終戦直前の大阪空襲で焼け落ち放置されていた本邸敷地は、これも大阪市が取得後地下鉄工事の資材置き場として利用した後公園整備がされ、2003年12月19日に大阪市から名勝指定を受けています。

 公園敷地には国宝「曜変天目茶碗」を収蔵する藤田美術館が隣接し、公園内には空襲被災を免れた高野山光台院から移築した多宝塔が残され、梅園梅叟が作庭した池泉回遊式の日本庭園も整備されています。

 朝夕肌寒く成る頃には紅葉が楽しめ、公園整備からまだ間が無いので木々は細目で本数もそれ程多くは有りませんが、春には梅・桃・桜と花見の名所でも有ります。

 

戦災を免れた公園南の正門。f:id:jotoyumekoi:20211001034126j:plain

巨木が幾本も残ってます。f:id:jotoyumekoi:20211001034138j:plain

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藤棚の手前に石組みの井戸が有ります。f:id:jotoyumekoi:20211001034204j:plain

桜ノ宮公園に面した中門。普段は閉まってます。f:id:jotoyumekoi:20211001034214j:plain

中央の芝生広場。f:id:jotoyumekoi:20211001034224j:plain

正面のビル群は京橋のOBP大阪ビジネスパーク)。f:id:jotoyumekoi:20211001034235j:plain

築山の向こうの白い壁は建て替えられた「藤田美術館」。f:id:jotoyumekoi:20211001034246j:plain

 左の建物は藤田美術館に併設された「あみじま茶房」。

 建物横に入口があって普段はここからも出入りできますが、「あみじま茶房」が定休日なので閉じられてます。

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茶室への伝い石。f:id:jotoyumekoi:20211001034308j:plain

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正面の茶室「光雪庵」。f:id:jotoyumekoi:20211001034116j:plain

茶室「光雪庵」裏の躙口。f:id:jotoyumekoi:20211001034330j:plain

高野山光台院から移築した多宝塔。f:id:jotoyumekoi:20211001034341j:plain

移築された当時は檜皮葺だったそうですが、銅板葺に葺き替えられたそうです。f:id:jotoyumekoi:20211001034352j:plain

所々に建物の礎石?が残されてます。f:id:jotoyumekoi:20211001033800j:plain

歌碑の様です。f:id:jotoyumekoi:20211001033812j:plain

元の場所から移動された焼け残った灯籠が至る所に置かれています。f:id:jotoyumekoi:20211001033823j:plain

灯籠が並んでます。f:id:jotoyumekoi:20211001033834j:plain

庭石と狛犬?ですか。f:id:jotoyumekoi:20211001033859j:plain

池泉回遊式日本庭園を巡る木橋は点検整備中で通行止めです。f:id:jotoyumekoi:20211001033847j:plain

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2020年から点検中だそうです。f:id:jotoyumekoi:20211001033936j:plain

なにかのアニメを思い出しますが割ったのは木です。f:id:jotoyumekoi:20211001033924j:plain

休憩用の四阿、ここで以前区役所の会議をやりました。f:id:jotoyumekoi:20211001033946j:plain

池泉回遊式の日本庭園。f:id:jotoyumekoi:20211001033958j:plain

アオサギが一羽。f:id:jotoyumekoi:20211001034011j:plain

水源は向かいの大川だそうです。f:id:jotoyumekoi:20211001034022j:plain

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桜ノ宮公園に面した北門。f:id:jotoyumekoi:20211001034045j:plain

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普段は此処から出入りする方が多い様です。f:id:jotoyumekoi:20211001034055j:plain

『大坂西町奉行所址』碑

 本町橋の「マイドームおおさか」前の「西町奉行所址」碑。

 大坂町奉行所は、江戸時代幕府直轄領のうち重要な場所に置かた行政機関「遠国奉行所」の一つ、江戸町奉行所・京都町奉行所と同じく2か所置かれ月交代の輪番制で役割を担ってました。

 大坂町奉行所は当初現在の大阪城西の大手前合同庁舎の位置に隣り合って置かれていましたが、1724年(享保9年)の大火、俗に言う「妙知焼け」にて双方合わせて焼け落ちた不都合さから西町奉行所は本町橋東詰の米蔵跡(石碑の場所)に移動再建されています。

 明治以降大坂町奉行所が廃止された後跡地には大阪府庁が置かれ、府庁が江之子島へ移った後の跡地は大阪博物場(動物園・美術館・図書館)で賑わったと伝えられますが、大坂西町奉行所の詳細については記録も余り残っておらず不明な点も多かったのですが、最近の発掘調査で少しづつ全体の規模など判明しつつあるそうです。

 石碑隣の石版には「大坂城惣構跡」「西町奉行所跡」「大阪府庁跡(初代)」と彫られてますが、本文は判別出来ません。

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第138回 特集展示 『大阪の太子信仰 -旭区太子橋の太子講資料-』

 最近は展示内容が変わると欠かさず来てる大阪歴史博物館の特集展示、第138回は「大阪の太子信仰 -旭区太子橋の太子講資料-」

 大阪市旭区太子橋の旧家で長年行われていた「太子講」、2000年にその歴史を終えるに当たりその祭具や太子像・太子絵伝などの掛軸が大阪歴史博物館に寄贈されその資料を中心に大阪と聖徳太子との関係性を聖徳太子伝や古地図など大阪歴博の収蔵品と共に辿って行きます。

 「太子講」というと、聖徳太子が寺院建立に大きな功績を残す事や「曲尺」を発明したと云う言い伝えを元に聖徳太子をご祭神にして建築関係の職人、特に大工職の行事として今でも日本各地で祀られているのが良く知られていますが、旭区太子橋の「太子講」は、聖徳太子が寺院(四天王寺)建立のため太子橋辺りを訪れ、近くの大庄屋で休息その大庄屋が代々「太子講」を継承されたと云う伝承が残っていて、他の「太子講」との整合性は余り感じられませんが、ひょっとすると森ノ宮の「元四天王寺」伝承とも関連が有りそうにも思えるお話では有りますね。

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写真は旭区の大宮神社境内「聖徳太子社」。f:id:jotoyumekoi:20210910221404j:plain

旭区太子橋の太子講祭壇、祭具は浄土真宗大谷派の祭具と同じですね。f:id:jotoyumekoi:20210910221413j:plain

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寄贈された聖徳太子絵伝、軸四幅。f:id:jotoyumekoi:20210910221438j:plain

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追手門学院通用門の『旧大阪偕行社時代の門柱』

 大阪城天守閣北の追手門学院通用門には、1945年まで存在した旧帝国陸軍大阪偕行社時代の門柱がそのまま使われてるのはよく知られている事ですが、いつもよく通ってる所なので写真を撮ろうと思うと登下校の子供達が居たり急いでいたりで、小学校の通用門でも有るので不審者紛いの事も出来ませんでしたが、たまたま人影を見かけない時間帯に出会いました。

 しかし防犯カメラには写ってるかな~。

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