古墳の集積地・馬見丘陵めぐり『馬見丘陵古墳中央群』

 史遊会の古代史教室見学会、公園館に立ち寄った後 馬見丘陵古墳群に向かいます。

 4世紀末から6世紀にかけて造営されたと見られる馬見丘陵古墳群はその位置関係から大きく北群,中央群,南群 の三郡に分ける事が出来、奈良県営馬見丘陵公園は中央群の古墳群を公園内に取り込んで整備された公園で、公園内の主な古墳は 池上古墳,乙女山古墳,倉塚古墳,一本松古墳,別所下古墳,ナガレ山古墳,巣山古墳,狐塚古墳,三吉2号古墳 と主な古墳だけでも9基の古墳が存在します。

 ちょうど公園北側の集いの丘から花の道にかけて馬見フラワーフェスタとマルシェが開催中で、家族連れなどで大変賑わってますが、南の古墳群を歩くとこの辺りは春から夏の花が多い様で歩く人影も少なく閑散とした印象で、長い期間をかけ丁寧に整備された古墳公園ですが、全体がテーマパークの様な雰囲気が漂い古墳群までも何かリアリティーを感じません。

 整備するのも良いが方向が違うとか史遊会のプロパーと話しながら歩いてましたが、やはり古墳群である前に公園であるというのが最大公約数なんでしょうね。

 

公園館から下池と上池の間の回廊を抜けて一本松古墳と倉塚古墳に向かいます。f:id:jotoyumekoi:20200801003401j:plain

下池。f:id:jotoyumekoi:20200801003411j:plain

左は一本松古墳、右は倉塚古墳。f:id:jotoyumekoi:20200801003427j:plain

台風の倒木が置かれてて解説版が見れない倉塚古墳。f:id:jotoyumekoi:20200801003443j:plain

一本松古墳。f:id:jotoyumekoi:20200801003456j:plain

一本松古墳頂上。f:id:jotoyumekoi:20200801003509j:plain

一本松古墳頂上。
良いお天気ですが、少し暑い!f:id:jotoyumekoi:20200801003247j:plain

これは何でしょうか?f:id:jotoyumekoi:20200801003259j:plain

奈良県戦没者慰霊碑。
四隅の円筒石碑金属板に戦没者名が1万人余り刻まれているそうです。f:id:jotoyumekoi:20200801003312j:plain

馬見丘陵古墳中央群中最大の巣山古墳 墳丘長220m。f:id:jotoyumekoi:20200801003324j:plain

巣山古墳。f:id:jotoyumekoi:20200801003338j:plain

巣山古墳。f:id:jotoyumekoi:20200801003349j:plain

長尾山菩提院 正俊寺『久貝因幡守之墓所』

 初代大坂東町奉行・久貝正俊の菩提寺「正俊寺」山門前の「久貝因幡守之墓所」。

 枚方市長尾の正俊寺は、河内領主・久貝因幡守正世が父である初代大坂東町奉行・久貝正俊の菩提寺として建立した寺院なんで歴代 久貝因幡守家墓所が祀られていて、私も大阪人なんでお参りしていくことにします。

 初代大坂東町奉行・久貝正俊は、河内国武蔵国(主に枚方市)に所領5700石を領有する上級旗本で大坂東町奉行在職は1619年~1648年、戦乱によって荒廃していた八田広と云われた長尾周辺を拝領後 家臣・細谷善兵衛に開墾整備を命じ52石の新田を開墾、のちの検地では230石に改められ、所領・長尾の振興に努めた領主で長尾村には久貝氏の長尾陣屋が置かれました。

 ここ墓所以外にも境内奥に杉木立と紫陽花に囲まれて第四代・久貝因幡守の供養塔が祀られています。

 

初代大坂東町奉行「久貝因幡守之墓所」。f:id:jotoyumekoi:20200601014748j:plain

歴代の墓石が並んでいます。f:id:jotoyumekoi:20200601014802j:plain

墓所内「開運之鐘」。f:id:jotoyumekoi:20200601014815j:plain

墓所内のベンチ。f:id:jotoyumekoi:20200601014840j:plain

涅槃像から霊苑に続きます。f:id:jotoyumekoi:20200601014827j:plain

境内奥「弔鐘の森」。
木立の間を歩いていくと供養塔前の石灯篭が見えてきます。f:id:jotoyumekoi:20200601014723j:plain

河内領主 四代久貝因幡守の供養塔。f:id:jotoyumekoi:20200601014736j:plain

大和・今井の寺内町と建国伝承地の陵墓をめぐる『懿徳天皇陵』

 史遊会の古代史教室見学会 「大和・今井の寺内町と建国伝承地の陵墓をめぐる」昼食後後半の建国伝承地の陵墓「懿徳天皇陵」です。

 古代史教室見学会最後のスポット「第4代天皇 懿徳天皇陵」御陵名は畝傍山南繊沙渓上陵。

 欠史八代の御一人に数えられ、第3代安寧天皇の第2皇子で同じく伝承伝説の天皇、大日本彦耜友天皇です。

 しかし道路に面した参道両脇の空き地が何時からでしょうか駐車場に成ってて、あまり良い印象では無いです。

 これで「古代史教室見学会 “大和・今井の寺内町と建国伝承地の陵墓をめぐる”」は終了、目の前の橿原神宮にも寄りたいですが4月に甲山八十八カ所巡りで痛めた膝も何とか持ってそうな内に帰ります。

 

参道両脇が駐車場に。f:id:jotoyumekoi:20190830033423j:plain

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こんな感じです。f:id:jotoyumekoi:20190830033525j:plain

まなご亭。
農具小屋を改装したトタン張りのカフェです。
農具などをさりげなく飾ってあり、セルフサービスでコーヒーや日本茶が飲め、何時もジャズが流れています。
畝傍山まなごの里の会」会員のサロンですが、会員以外でも利用可能だそうです。f:id:jotoyumekoi:20190830033540j:plain

橿原神宮、今回はパス。f:id:jotoyumekoi:20190830033552j:plain

橿原神宮西口駅で解散。f:id:jotoyumekoi:20190830033603j:plain

大和・今井の寺内町と建国伝承地の陵墓をめぐる『安寧天皇陵』

 史遊会の古代史教室見学会 「大和・今井の寺内町と建国伝承地の陵墓をめぐる」昼食後後半の建国伝承地の陵墓「安寧天皇陵」です。

 「第3代天皇 安寧天皇陵」御陵名は畝傍山西南御陰井上陵、後世所在地が不明になり元禄修陵でも別地に、幕末修陵に際して現陵に治定されこの方も欠史八代の御一人で伝承伝説の天皇神武天皇の孫 磯城津彦玉手看天皇です。

 陵号の由来とされる古井戸の「御陰井」は、この地から南へ3分足らず集落の中に飛地として宮内庁が管理してます。

 史遊会・古代史教室見学会 残すスポットはあと一つ、解散地の橿原神宮西口駅もすぐそこに、しかし歩み出す足の重い事。

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大和・今井の寺内町と建国伝承地の陵墓をめぐる『スイセン塚古墳』

 史遊会の古代史教室見学会 「大和・今井の寺内町と建国伝承地の陵墓をめぐる」昼食後後半「スイセン塚古墳」です。

 「山本山 大師堂」から「スイセン塚古墳」、江戸時代「第二代綏靖天皇」陵に比定され、全長71m 後円部径46m高さ6m 前方部先端幅30m高さ3mのこの地方では珍しい前方後円墳で、綏靖天皇のスイゼイがなまったものとして綏靖天皇陵とされてた様です。

 未調査で葺石や埴輪の出土は無く、築造時期は古墳時代前期~中期(5世紀後半)と推定され、地元の古老の話では盗掘跡とみられる穴もあった様です。

 

スイセン塚古墳への途中、この辺りの村墓だと思いますが、太平洋戦争での戦死者の墓石が階級の区別なく目立つよう並べられています。f:id:jotoyumekoi:20190830032004j:plain

この鳥居は、スイセン塚古墳の先にある天神社の鳥居で古墳とは関係は無いようです。f:id:jotoyumekoi:20190830032016j:plain

正面の木立がスイセン塚古墳。この先には立ち入り禁止に成ってますのでここまで。f:id:jotoyumekoi:20190830032030j:plain

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近くのため池。農業用水の様です。f:id:jotoyumekoi:20190830032110j:plain

大和・今井の寺内町と建国伝承地の陵墓をめぐる『神武天皇陵』

 史遊会の古代史教室見学会 「大和・今井の寺内町と建国伝承地の陵墓をめぐる」昼食後後半の建国伝承地の陵墓「神武天皇陵」です。

 「初代天皇 神武天皇陵」御陵名は畝傍山東北陵、ここも元々は四条ミサンザイと云われ周囲約100m 高さ5.5mの円丘で、鳥形埴輪や装飾付須恵器なども出土してるそうで四条古墳群を構成する古墳とされる様です。

 とにかく広く大きく静かで厳かです。

 深い森に囲まれた砂利道を歩いて行くと少しづつ荘厳な雰囲気に包まれだす御陵、墳丘の周りは幅約16mの周濠が廻り他の陵墓との格の違いを感じます。

 幕末1862年(文久2年) にこの地が神武天皇陵と比定、明治から昭和にかけて整備され現在の荘厳な姿に改められてます。

 紀元前660年1月1日(新暦2月11日・建国記念の日)神話・神武東征伝にて橿原宮で即位したとされる神日本磐余彦天皇、日本の初代天皇です。

 

国道161号線から深い森の砂利道を神武天皇陵に向かいます。f:id:jotoyumekoi:20190830025915j:plain

途中に宮内庁書陵部畝傍陵墓監区事務所。f:id:jotoyumekoi:20190830025925j:plain

幅約16mの周濠に架かる石橋を渡ると神武天皇陵の鳥居が見えてきます。f:id:jotoyumekoi:20190830030127j:plain

正面左の手水が有りますが、さすがに水(水道水?)は常時流されてる様です。f:id:jotoyumekoi:20190830030025j:plain

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誰が置いていったのか、花束と鴉の羽が供えられてました。f:id:jotoyumekoi:20190830030115j:plain

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森の砂利道を次に向かいます。f:id:jotoyumekoi:20190830030139j:plain

大和・今井の寺内町と建国伝承地の陵墓をめぐる『綏靖天皇陵』

 史遊会の古代史教室見学会 「大和・今井の寺内町と建国伝承地の陵墓をめぐる」昼食後後半の建国伝承地の陵墓「綏靖天皇陵」です。

 大和三山の一山、畝傍山の山裾を取り囲むように初代 神武天皇陵、第2代 綏靖天皇陵、第3代 安寧天皇陵、第4代 懿徳天皇陵、それとかっては綏靖天皇陵に比定されてたスイセン塚古墳、 途中で銘水の湧く太子堂と廻ります。

 最初は「第2代天皇 綏靖天皇陵」御陵名は桃花鳥田丘上陵、塚根山古墳と云われた径16m 高さ3mの小さな円墳を綏靖天皇陵として整備比定されてますが、欠史八代中の御一人なんで実在説には疑問が有り伝説の天皇とされる神渟名川耳天皇です。

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国道161号線を次の神武天皇陵に向かいます。f:id:jotoyumekoi:20190830025321j:plain

源 頼朝 公の供養塔

 甲山の神呪寺の近くなのか境内なのか裏山なのか、隣接したところに源頼朝公の墓と言い伝えが有る石塔が建ってます。

 神呪寺は鎌倉時代初期に、源頼朝公が再興したのでその縁だと思いますが、戦国時代の兵火によ荒廃江戸時代に再建された神呪寺共々江戸時代の建碑ではないかと私は思いますので供養塔ですね。

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「頼朝〇塚」と刻まれてます。f:id:jotoyumekoi:20200501092532j:plain

供養塔。f:id:jotoyumekoi:20200501092603j:plain

供養塔の裏、何か字が彫られて居た様ですが判別できません。f:id:jotoyumekoi:20200501092618j:plain