伏見奉行所跡

 指月伏見城跡から西に、国道24号線を超えて京都市営桃陵団地入口に立つ「伏見奉行所跡」碑へ。

 伏見奉行とは江戸幕府が直轄地経営のため置いた遠国奉行の内の一役職、伏見の町政・木津川の船舶の取り締まりおよび京都町奉行とともに近江国丹波国の司法・行政を管轄しますが、戊辰戦役の発火点となった鳥羽伏見戦役の伏見の戦いで会津藩兵と新選組が立て籠もり、150m北の御香宮に陣を置いた薩摩藩兵と兵火を交えた事で有名な地です。

 1868年1月2日、会津藩が陣を敷いた少し西の伏見御堂の会津藩兵と御香宮薩摩藩兵が小競り合いを続けていた処に鳥羽方面から聞こえる銃砲声に端を発し辺り一面が戦火に包まれ伏見方面には幕府軍約1万、薩長軍約3000が展開していたと言われますが、幕府軍は射程の短い旧式砲一門のみで数を頼んでろくな作戦計画も無く、薩長軍の御香宮からの4門と龍雲寺からも砲撃され伏見奉行所は炎上し淀方面に撤退する事に成ります。

 処で伏見奉行所新選組は、「燃えよ剣」などで描かれた土方歳三永倉新八らが三度斬り込みを敢行しますが、戦果は芳しくなく虚しく犠牲のみを重ねた様です。

 

京都市営桃陵団地入口。f:id:jotoyumekoi:20200901035913j:plain

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左端の「桃陵団地の歴史」案内碑の笠石は陸軍時代の門の笠石だそうです。f:id:jotoyumekoi:20200901035935j:plain

江戸時代と明治時代の石垣の写真が嵌め込まれてます。f:id:jotoyumekoi:20200901035946j:plain

桃陵団地の入り口。f:id:jotoyumekoi:20200901035957j:plain

桃陵団地建物の壁面は、この地の歴史に合わせて蔵の様な意匠が施されてます。f:id:jotoyumekoi:20200901040008j:plain

坂本龍馬 お龍『結婚式場』跡

 東山三条通粟田神社に向かう途中で「坂本龍馬 お龍 結婚式場 跡」。

 以前ここには東山ユースホテルが建ってた場所ですが、2009年に閉館約40年の歴史に幕を下ろし後にはマンションが建って、「結婚式場 跡」碑もそのまま引き継ぎ碑は2011年建碑なので2年間は東山ユースホテルの表に建ってた事に成ります。

 龍馬とお龍は、西郷隆盛 或は中岡慎太郎の媒酌で二人は婚姻関係を結んだというのが通説でしたが、父親が青漣院中川宮の侍医だった事からこの地に有った青漣院塔中・金蔵寺住職・智足院の仲人で内祝言を挙げたと言うお龍の回顧により根拠とされますが、この辺り今と違ってご本人以外でも何をもって結婚と解釈したかと云う事かなと思います。

 処で、青漣院塔中・金蔵寺自体もう少し南に有ったという指摘も有りますが、土地を提供する方にすれば表通りに面する目立つ所に置きたいですよね。

 

以前はユースホステルが建ってました。f:id:jotoyumekoi:20200204151113j:plain

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ユースホステルの頃はもっと左の建物中心寄りに建ってました。f:id:jotoyumekoi:20200204151149j:plain

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池田屋事変殉難志士墓所跡碑

 最近では大阪市でも歴史的出来事を記念する石碑やプレートが目立つ様に成って来ましたが、そこら中に記念碑の建ってる京都ではまだ足りないらしく新しい記念碑が置かれ続けられて居て、ここは2009年に建立された「池田屋事変殉難志士墓所跡碑」、「京都立春パワースポット巡り」のバス待ち時間に見学。

 池田屋事件で遭難したのは熊本藩宮部鼎蔵 松田重助、長州藩吉田稔麿 杉山松助 廣岡浪秀、土佐藩北添佶摩 石川潤次郎 望月亀弥太、林田藩の大高又次郎の9名だったとも言いますが、その後明治新政府によって宮部 松田 吉田 杉山 北添 石川 大高の7名は「殉難七士」に列せられています。

 それら殉難者は、三条大橋東の浄土宗法輪山三縁寺に運ばれて葬られ墓石なども建立されていたのですが、1979年に京阪三条駅前開発にともない三縁寺は左京区岩倉花園町に「殉難七士」の墓石共々移転し、移転に際し石碑建立の契約が三縁寺と京阪電鉄とで結ばれたそうですが、京阪の開発計画が二転三転場所が決まらず30年の時を経て漸く実現と成りますが、京阪三条駅開発が2020年度中に開始されるそうで今度来るときには場所が変わって居そうですね。

 石碑の場所は、高山彦九郎先生銅像三条通を少し東に行った処を南に折れた道路沿いに建ってます。

 

高山彦九郎先生銅像横を東に。f:id:jotoyumekoi:20200204123611j:plain

池田屋事変殉難志士墓所跡碑。f:id:jotoyumekoi:20200206184325j:plain

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石碑裏に三縁寺の移転場所が記されてます。f:id:jotoyumekoi:20200206184339j:plain

 三縁寺の建っていた辺りで、一帯は2020年度から再開発が開始され複合施設などが計画されてる様です。

左の小さな白い石碑が「池田屋事変殉難志士墓所跡碑」。f:id:jotoyumekoi:20200206184352j:plain

京都守護職屋敷跡

 重要文化財 京都府庁旧本館正庁は、幕末京都に置かれた京都守護職上屋敷の在った所でも有り、その職責は京都所司代よりも上席とされ京都と大坂の治安維持にあたり会津藩主・松平容保がその任に当たりました。

 上屋敷は何回か増改築が施され現在の京都府庁旧本館とほぼ同じ敷地面積を占めていたそうで大変豪華な造りだったそうです。

 京都守護職はここ上屋敷以外にも京都市内に数ヶ所屋敷を構え上洛藩士1000名以上と配下の新選組でその任に当たって居た訳ですが、28万石の会津藩と言えどその費用負担は重く新式小銃を必要数揃えるのには薩長に大きく後れを取り、戊辰戦役の多大な人的物的損害に繋がったと言えますね。

 「京都守護職屋敷跡」石碑は、正面玄関扉内右植え込みの内側に説明版と共に建てられて居ます。

 

正面玄関右植え込みの内側に「京都守護職屋敷跡」石碑が在ります。f:id:jotoyumekoi:20201201005327j:plain

京都守護職屋敷跡」石碑。f:id:jotoyumekoi:20201201005303j:plain

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左後方に京都府庁旧本館。f:id:jotoyumekoi:20201201005317j:plain

 旧本館正庁中庭には中央の「祇園しだれ桜」の周りに松平容保に因んで名付けられた新種の「容保桜」と、HNK大河ドラマ「八重の桜」で主役を務めた「綾瀬はるか」さん手植えで同じく新種の桜「はるか桜」植えられてます。

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京都府庁旧本館。f:id:jotoyumekoi:20201201005238j:plain

大阪城の号砲

 大阪城天守閣登閣口手前に青銅?製の大砲が置かれてます。

 子供の頃は跨って遊んだりした覚えが有り大阪城天守閣では一番大好きな展示物なんです。

 幕末に津山藩で鋳造され天保山砲台に置かれた大砲で、明治に成ってこちらに移されたと有ります。

 大正頃まで正午に成ると号砲が撃たれて「お城のドン」とも言われていて、今では死語ですが午後から休みの半ドンの語源ととも言われますが、半ドンの方はオランダ語で日曜日のドンタクが語源の様です。

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ここから撃ってどこまで届くんだろうか。f:id:jotoyumekoi:20190510074245j:plain

尾栓で砲尾をネジで塞いでるので和流砲です。f:id:jotoyumekoi:20190510074234j:plain

大きな砲でカノン砲に分類できるようです。f:id:jotoyumekoi:20190510074221j:plain

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大阪城天守閣『特別展 幕末・維新の人とことば』

 幕末から明治維新激動の時代に活躍した人々の書や手紙類を中心に「第1章 世の中を思い、自分を見つめる」の大塩平八郎から「第5章 近代日本を切り開く」で明治の元勲たちまで、時代を追って展示されていて彼らの人間像や時代背景などが明らかに成って行きます。

 85点の書画が出品展示されてますが、どの展示品も保存状態が大変良くて彼らの生の声が生き生きと伝わってきます。

 処で私的には1995年~1997年にかけて行われた天守閣大改修工事以降初めての大阪城天守閣で、天守閣内部の様子もすっかり変わっていて8階展望台とそこからの眺めが以前の面影を感じるだけでした。

 館内展示も3・4階展示室以外は映像を多用してるせいか何となく薄暗く感じアミューズメントパーク内テーマ館の様で余り好きには成れません、人出を避けて水曜日に来て見ましたが館内は外国人観光客だらけでどこが良いんでしょうか。

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1階、鯱や伏虎など原寸大のレプリカです。f:id:jotoyumekoi:20190416085548j:plain

3階、特別展は撮影禁止なのでここまで。f:id:jotoyumekoi:20190416085542j:plain

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草に埋もれ看板が倒れた『洗心洞跡』石碑

 先日の「大塩平八郎の乱・戦跡巡り」最後のポイント、大塩平八郎の私塾「洗心洞」の存在した辺り、造幣局官舎敷地内に成りますが「洗心洞跡」石碑が草に埋もれ、台風21号の被害か案内板が倒れたままでした。

 台風被害は不可抗力も有るかもしれませんが、7割がた草に埋もれて判別が出来ない状態で長らく放置されて居た様です。

 看板の再建は時間と予算が必要としても草刈りくらいはすぐに善処出来そうなので、大阪市教育委員会事務局生涯学習文化財保護担当が問合せ先なんだそうでさっそく電話でお願いして置きました。

 何分造幣局敷地内の事でどこに管理責任が有るのかよく分かりませんが、上記連絡先に良ければ早急に善処するようにお電話宜しくお願いします。

 

植え込みが刈りこまれず草に埋もれた石碑。f:id:jotoyumekoi:20190416085417j:plain

倒れたままの看板。f:id:jotoyumekoi:20190416085411j:plain

倒れた看板、造幣局官舎内緑地の事で危険性は無いようです。
でも飛んで行かなくて良かった。f:id:jotoyumekoi:20190416085422j:plain

右横の駐車場通用門から官舎へ廻れます。f:id:jotoyumekoi:20190416085406j:plain

福澤諭吉誕生地

 堂島リバーフォーラムまで来たのでとなりのABCホール南東角1万円札の「福澤諭吉誕生地」

 当地 中津藩蔵屋敷で生れ緒方洪庵適塾に学び、慶応義塾創始者と成った「福沢諭吉」です。

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玉江橋から堂島川
左の港が「福島(ほたるまち)港」、その後ろがABCホール中津藩蔵屋敷跡「福沢諭吉誕生地」です。
バブルが弾けて以降、大阪ではこの辺りが一番変わった様に思います。f:id:jotoyumekoi:20200601040458j:plain