「大阪あそ歩」最終ガイド研修とも云えます、阪神なんば線開通1周年記念まち歩き【姫島】「新羅より来りた美姫・アカルヒメ伝説を探る~君が代の源流“苔生すまでに”から大和田街道まで~」に見学がてら参加して見ました。
その昔、大阪・淀川下流域は大小さまざまな砂州(島)が列なり、「難波八十嶋」と呼ばれていました。
「摂津国風土記」逸文によれば、応神帝時代に、新羅にいた女神・アカルヒメが夫から逃れて難波の島に来たので「比売島」と呼ばれたと記述があります。
そのアカルヒメを祭る姫島神社や、大和田街道、大野川緑道などを廻ります。
以上の様なコース内容ですが、大阪あそ歩ガイド最高齢93歳のガイドさんに会えるのも、このコースの魅力の一つです。
阪神本線「姫島」駅で集合、説明の後出発します。
当日は朝から雨模様の上、木曜日の午後2時出発と云う事で、参加者が居られるか心配でしたが、1名欠席で14名と、ガイド・サポーター3名、阪神電鉄職員2名の計19名です。
サポーターの方が、先日のガイド研修に御一緒した方で、楽しい道中に成りました。
小雨の中出発します。
最初のポイント、鎌田酒食品店。
姫島・東の寺「慈雲寺」。1580年創建の浄土真宗大谷派の寺院です。
特定郵便局に「大阪」が付いているのは此処だけだそうです。
お寺の山門が見えます。姫島・西の寺「編満寺」、1537年創建姫島最古の浄土真宗本願寺派寺院です。
編満寺前で、大和田街道の説明を拝聴します。
大和田街道
明治41年竣工、大正15年淀川大橋の竣工までの街道名である。
大坂・旧難波橋から尼崎・大物までの旧国道。
大正15年淀川大橋が架かり新国道ができるまでは、大和田街道は尼崎に入り中国街道に合流し、西宮を経て山陽道として下関に達する幹線道路であり、大和田街道沿いの西淀川区内の人は、それゆえにこの旧街道を阪神街道とも呼んでいた。
(大阪市土木技術協会発行「大阪市の旧道と坂道」)による。
「歴史の散歩道」だそうです。
姫嶋神社に向かいます。
宮司さんに案内をして頂いて拝殿に上ります。
「幕地車」の見送り幕。
神功皇后新羅出兵の図との申し伝えですが、どう見ても行先は竜宮城に見えるとの宮司のお話でした。
姫嶋神社
ご祭神阿迦留姫(あかるひめ)は、「古事記」によると「赤い玉より生まれた美人で新羅の王子、天之日(あめと結婚、常に美食を用意して仕えたが、高慢な夫の態度に耐えきれず、難波に逃げ帰った」とある。
また「摂津国風土記(せっつのくにふどき)」逸文には「新羅の女神が夫のもとを逃れ、筑紫の国の伊波比(いわい)の比売島(ひめじま)(大分県姫島)に暫くいたが、ここは新羅から近いので、きっと夫が追いかけてくるに違いないと摂津の国に移り住んだ。」との伝説が云い伝えられています。
「君が代」の元歌と云われる万葉集
“妹(いも)が名は 千代に流れん 姫島の小松がうれに 苔生すまでに”の歌碑。
「紅白桜」でしょうか、緋色の花が混じっています。
明治の頃には繁華街だった、「大源座」前の通り。
芝居小屋・「大源座」跡。
昭和20年6月の空襲で辺り一面焼け野が原に成ったそうです。
大野川緑陰道路に向かいます。
案内看板。
公害(大気汚染)の街と云われた西淀川区もスッカリ様変わりし、その象徴ともいえる全長約3.9kmの大野川緑陰道路。
行政も罪滅ぼしをしたのか、大変立派な緑陰道路です。
直径3mの下水管を埋設しているそうですが、川筋をそのまま緑地化した様です。
中島大水道跡碑。
「西淀川区未来わがまち会議」の活動の様です。
薩摩切子製造工房「坂本カットグラス」。
研磨用ホイール。薩摩切子はホイールを用いるのが、同時代の江戸切子との違いです。
左端、前列右端が復刻版の薩摩切子です。
旧街道の「野里街道」・・・・・。路地が有りました。
江戸時代の街道筋「野里街道」。
大和田街道からの野里街道。私の地元の「京街道」もこの様な雰囲気です。
「大和田街道」と旧道「野里街道」の交差点。
石碑前で付近の説明を拝聴します。
以上が、私の大阪あそ歩初体験です。
何となく93歳ガイドさんが一番楽しんで居られた様な気もしましたが、別れ際に研修をご一緒したサポーターさんに激励を受けまして、漸く雨も上がり少し肌寒い夕暮れ家路に付きます。
出発点「姫島駅」に戻り、特別企画記念品を頂いて解散をします。