金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)、山号は紫雲山、本尊は阿弥陀如来、知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の大本山。
承安6年(1175年)法然上人が、比叡山より下りてこの地・黒谷に庵を建てたのが寺の起こりと伝えらます。
幕末史マニアには、会津藩が京都守護職本陣を置いた寺院としても新撰組ファンにも有名で、4万坪の寺域内に1000名以上の藩兵が駐屯できる広大な城郭構造の寺院です。
金戒光明寺大門。
柱に「京都守護職本陣」の木看板が掲げられています。
大門を入り山門に向かう参拝道。
桜並木です。開花時にはさぞ見事だと思います。
石段下から、山門を望みます。
石段下の前景図。壮大な寺院です。
山門前の立札。
応仁の乱にて焼失した山門を萬栄元年(1860年)に再建落慶したとあります。
御影堂(大殿)。奥正面に法然聖人75歳の御影(座像)が奉安されています。
1月8日より3月21日、『京の冬の旅・非公開文化財特別公開~戦国・姫君と武将たち~』を開催。
徳川家二代将軍秀忠公の肖像画、織田信長「天下布武」の朱印状など、公開だそうですが今回はこの後岡崎神社に向かうため、残念ながらPASSします。
読経の声が聞こえるので障子の影から中を覗くと、複数の若い僧侶がお勤めの真っ最中でした。
「熊谷直実」鎧掛けの松。
一の谷の戦いで「平敦盛」を打ち取り、世の無常を悟った「熊谷直実」は、法然上人に会い出家を決意、この地「黒谷」で鎧を洗い松に掛け、馬を繋ぎ、法然上人の門を叩いたとされる鎧掛けの松の木。
後に直実は出家し、庵を結び「蓮生法師」と成ったという有名な故事。
極楽橋に向かいます。
「徳川秀忠」公菩提の三重塔建立時に石橋に架け替えた橋です。
蓮池(兜之池)。
「熊谷直実」が出家を決意兜を脱ぎ兜の房を切り池に掛けた形が起源だそうです。
蓮池裏の熊谷堂。
極楽橋を渡った処に、真新しい立て看板。
「江」の供養塔。
となりに、「春日の局」の供養塔。
徳川家ゆかりの文物が多い寺院です。
この三重塔は「徳川秀忠」公菩提の三重塔、安置されている本尊の文殊菩薩と脇士の像は運慶の作で、日本三大文殊菩薩の一つだそうです。
詣内には、甕の中で「蓮」が育てられて居ました。
会津藩が京都守護職として文久2年(1862年)に入洛してから、鳥羽伏見で敗退する慶応3年(1868年)まで、京洛の地で命を落とした会津藩士計352霊が葬られています。
金戒光明寺は、浄土宗を庇護した徳川幕府により、南に鎮座する知恩院と共に京都の東、粟田口などを守護する城郭構造の寺院のためか、思った以上に広大で見残した部分も多々有り「棟梁」ももう一度来て見たいそうで、今回欠席の「トンボさん」「ご隠居さん」を誘い再訪する事にします。
頬に冷たい物を感じますが、残念ながら雨の様です。
この後は極楽橋手前まで下り、蓮池裏・熊谷堂前から石段路地を下り「丸太町通り」から岡崎神社に向かいます。
蓮池裏・熊谷堂前から石段路地。