世界連邦平和像

 大阪城大手門から大阪府庁本館方面に向った上町筋沿いの「世界連邦平和像」後方植え込みの白い「オオムラサキツツジ」が満開です。

 後ろ足を跳ね上げた馬に乗ってる少女像の大きな彫刻で、作者は長崎平和公園平和祈念像」の作者で文化勲章受章者・北村西望、製作年は1973年、ほぼ同じ構図の彫刻「世界連邦平和像」が北村西望が晩年アトリエを構えた東京都武蔵野市近く三鷹市のJR三鷹駅北口ロータリー中央に置かれていてこちらの製作年は1969年。

 戦前は「報国芸術会」の結成に大きく関わり戦意高揚を意図した作品を多く手掛けた北村西望ですが、戦後は一転しては平和や自由、宗教にも傾倒し仏教の高僧像や仏像、キリスト像孔子像などを残しています。

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聖徳太子1400年忌 まち旅シンポジウム2021『古代史観光の未来展望』

 上町台地アートプロジェクト実行委員会主催のシンポジウム「古代史観光の未来展望」にZoom参加。

 サブテ-マが「古代のスーパースターをたどるマイクロツーリズム」と有って、聖徳太子に関連した歴史資産を観光資源としてどう生かすかが趣旨のシンポジウムなんで、大阪観光局や大阪府大阪市はじめ関係諸団体の担当者が勢揃いお役人のアリバイ作りとも言えるシンポジウムなんですが、第2部フォーラムの河上麻由子・奈良女子大学人文社会学科 准教授の講演が面白くて、古代歴史文化にゆかりの深い島根県 奈良県 三重県 和歌山県 宮崎県の5県で主催する「第7回古代歴史文化賞優秀作品賞」を2019年に受賞した著書・「古代日中関係史 −倭の五王から遣唐使以降まで−」をさっそく図書館に予約。

 この河上麻由子先生、語り口も独特で今後の講演なんかも要チェックです。

 

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第134回 特集展示『蒐集家・高島唯峰 -明治期考古学の遺産-』

 大阪歴史博物館の第134回目の特集展示「蒐集家・高島唯峰 -明治期考古学の遺産-」です。

 明治初期、日本の考古学はまだ未発達な時代に東京銀座で歯科医を開業していた高島多米治(号:唯峰)は、関東地方を中心に1万数千点に及ぶ採集活動を行った人物です。

 1922年、高島の収集品1万3千点余りが近江長浜の(財)下郷共済会に売却され展示施設・鍾秀館に展示されていましたが、戦後それらは複数の機関に売却されその内最多の約6千点を1958年大阪市立美術館が購入、その後大阪市立博物館(現・大阪歴史博物館)に移され、2010年から大学などとの共同研究で約5千点に付いては詳細なリストが整えられ現在も作業中だそうです。

 以上が高島コレクションの概要ですが、現在の文化財保護法などや考古学的見地に照らし合わせると極めて杜撰な発掘調査と言わざるを得ず、宝探し・トレージャーハンティングの域を出ない単なる考古物・骨董品コレクションで有るとも言える様です。

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大阪城・千貫櫓の後ろに赤い『勝だるま』

 大阪城・千貫櫓の後ろに大・中・小の赤い「勝だるま」が3体。

 「勝だるま」と言えば箕面勝尾寺ですが、何なんでしょうか?、今度見に行こう!

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特別企画展『大阪の近代化と町(ちょう) -水帳(みずちょう)から公文書へ-』

 大阪歴史博物館特別企画展「大阪の近代化と町(ちょう) -水帳(みずちょう)から公文書へ-」最終日に閲覧。

 「水帳」とは「検地帳」のことで明治初期から1950年代まで使われた「土地台帳」に変化し現在は「不動産登記簿」として整備されていて「水帳」の「水」は、古代律令制下の「御図帳」の当て字と言われます。

 今回の特別展は、1879年~1880年に掛けて町(ちょう)で起きた以下の三つの変化に注目、住民の高度な自治組織で在った大坂三郷を基にした町共同体の解体過程を古文書から紐解いていきます。

1.水帳における土地所有者名義の切り替え作業(帳切ちょうぎり)が終了すること。

2.町が作成した水帳が区役所に「移管」され、公文書となったこと。

3.町に町会という議会が導入されたこと。

 良く知られているように、1889年大阪府下4区を大阪市として市政が施行されるまで、変遷は有りますが各共同体ごとに議会が存在し課税徴税の根拠と成る「水帳」も町共同体で所有管理され、家持町人など特定の住民中心とは言え共同体自治組織が機能していたのが大阪で在ったと言えます。

 江戸時代の地方分権体制が解体され、国家による中央集権体制が強化されていく過程に置いて大阪市が置かれ、江戸時代からの住民共同体自治は大きく後退して行き、現在では道路を含めれば大阪市域の三分の一が大阪市有地であると言われますが、元々は大阪市有地などは無く、町共同体の共有地を大阪市に移管して行った結果でも有る様ですが、その過程などもどの様な内容だったんでしょうか。

 翻って現在の大阪市民にとって大阪市と言う行政体が本当に必要なのか、改めて考えてみたいと思いますが・・・。

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展示場は撮影禁止なので写真はここまで。f:id:jotoyumekoi:20210302010215j:plain

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八阪神社(下之宮)

 唐人澪まち歩きの途中大正区三軒家東で「八阪神社」。

 此の地では最も早く守護神として素盞鳴尊を勧請した神社と伝えられ、当社地から北西600mほどにも「八坂神社」が鎮座して両社合わせて「八坂神社」とされる様ですが、こちらは「下之宮」あちらは「上之宮」と称され、八坂の坂の字が下之宮は「阪」、上之宮は「坂」の字を使います。

 大正区では、明治末期の神社合祀で当社以南の神社は二社しか現存していない様で、港湾地区で倉庫ばかりが目立つ大正区ですが、何となく寂しい様には何時も感じます。

 1647年 中村勘助(木津の勘助)の勧請と伝わり、家屋が三軒しか存在しなかった事から「三軒家」と名付けられた当地の同社創建時はどんな風景だったんでしょうか。

 処で「木津の勘助」ですが、今に伝わる剛毅な逸話から「侠客」扱いされる様ですが、わたしは土木技術者だったんだと思っています。

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拝殿。
左の赤い鳥居は境内社のお稲荷さん。f:id:jotoyumekoi:20210301002711j:plain

御神木の大楠。f:id:jotoyumekoi:20210301001743j:plain

朝鮮通信使が見た大坂 ~講演会並びに街歩き~(後半)

 「朝鮮通信使川御座船を考える会」講演会と街歩き会、後半の街歩きに出ます。

 全体の流れは「唐人澪」と言われ埋め立てられた旧尻無川跡道を歩きますが、2017年11月4日 同会で行われた「~水の朝鮮人街道~ 『唐人澪』探訪ウオーク」の南北逆コースを巡る事に成ります。

 

江之子島文化芸術創造センターから阪神高速高架下をくぐり南に向かいます。f:id:jotoyumekoi:20210301001437j:plain

大渉橋から木津川。
左のマンション辺りに大坂冬の陣「博労渕砦」が有ったと推定されています。f:id:jotoyumekoi:20210301001448j:plain

尻無川跡碑。f:id:jotoyumekoi:20210301001459j:plain

旧尻無川川筋。松島公園に向かいます。f:id:jotoyumekoi:20210301001511j:plain

松島公園の松島橋親柱。f:id:jotoyumekoi:20210301001525j:plain

松島公園「九条島と朝鮮通信使」碑。f:id:jotoyumekoi:20210301001540j:plain

梅本橋・顕彰碑。
「戎島渡し」廃止後架けられた橋で、川口居留地への接続橋。f:id:jotoyumekoi:20210301001552j:plain

松島公園から「竹林寺」。f:id:jotoyumekoi:20210301001602j:plain

竹林寺に葬られた朝鮮通信使随行員「金 漢重」の墓碑と供養塔。f:id:jotoyumekoi:20210301001613j:plain

千代崎橋で大澤館長の解説を聞いていますが、私は聞き漏らしました。f:id:jotoyumekoi:20210301001625j:plain

若松橋から道頓堀川水門。f:id:jotoyumekoi:20210301001638j:plain

JR大阪環状線「木津川橋梁」f:id:jotoyumekoi:20210301001647j:plain

百済橋碑。f:id:jotoyumekoi:20210301001659j:plain

難波島の地名が残る抽水所。f:id:jotoyumekoi:20210301001712j:plain

木津川に架かる阪神高速道路橋沿いの歩道橋から緑色の木津川水門。f:id:jotoyumekoi:20210301001722j:plain

木津川沿い三軒家川に面した「浅野造船所 大正マリーナ」。
三軒家川は難波島を東西に分ける形で掘られた運河。f:id:jotoyumekoi:20210301001733j:plain

阪神高速高架北側の八坂神社の御神木。
この後JR大正駅まで戻り解散。f:id:jotoyumekoi:20210301001743j:plain