關 一 市長像と寒椿

 大阪市立東洋陶磁美術館入口前に、市域人口も経済力も当時の東京市をしのぎ大阪市が最盛期を迎えた今に謳われる大大阪時代の第七代市長・關 一 の銅像が、戦時中の金属供出や戦災も免れ今に伝えられています。

 關 一 市長時代の大阪市は、豊かな財政力を背景に御堂筋拡幅や都心部区画整理を始め市営地下鉄、市営バス、市営公園に公営住宅、市営病院や日本最初の市立大学・大阪商科大学や中央卸売市場の開設、大阪港の整備など「都市計画」の概念を最初に取り入れた市長とも言え、良くこれだけの事が市長在職約10年間に出来たもんだと感心しますが、それらの「都市計画」は戦中戦後の混乱期を経ての高度成長期に、關市長の助役でも有った社会党系の中馬市長時代に一区切りを迎えますが、その中馬市長は「最終的には現在の大阪府下全部を大阪市域にするのが好ましい」と大阪市会決算委で述べて折り、中馬市長の師匠とも言える關市長が尼崎までも含めた大阪市域拡大論を唱えてえ居た事など、大阪市の政財界の奥底で絶える事のない現在の府市統合論にも通ずる大大阪待望論の根深さも感じますね。

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